細井平洲
メインメニュー 検索 表示 寄付 アカウント作成 ログイン 個人用ツール 目次の表示・非表示を切り替え 細井平洲 3 個の言語版 ページ ノート 閲覧 編集 履歴を表示 ツール 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 細井 平洲 (ほそい へいしゅう、 享保 13年 6月28日 ( 1728年 8月3日 ) [ 1 ] - 享和 元年 6月29日 ( 1801年 8月8日 ) [ 1 ] )は、 江戸時代 の 儒学者 。本姓は 紀氏 。 折衷学派 。平洲または如来山人と 号 す、 諱 は徳民、 通称 は甚三郎。字は世馨。 尾張国 知多郡 平島村 (現・ 愛知県 東海市 )出身。弟子には 寛政の三奇人 として有名な 高山彦九郎 などがいる。また、 米沢藩 藩校 興譲館 の学則には『紀徳民』とある。 略歴 [ 編集 ] 細井平洲誕生地碑(愛知県東海市の宝国寺) 尾張国知多郡平島村(現愛知県東海市)の農家に生まれた [ 1 ] 。幼くして学問に励み、16歳のときに 京都 に遊学するが [ 1 ] 、当時有為な学者はほとんど 江戸幕府 や諸藩に引き抜かれていたので失望し帰郷 [ 要出典 ] 。その時、 尾張藩 家老 竹腰氏 家臣の子で折衷学派の 中西淡淵 が名古屋にも家塾の叢桂社を開くことを知り [ 1 ] 、そのまま師事する [ 1 ] 。後に中西の薦めにより 延享 2年( 1745年 )に唐音研究のために 長崎 に遊学 [ 1 ] 。 宝暦 元年( 1751年 )24歳の時、江戸へ出て 嚶鳴館 (おうめいかん)という私塾を開き [ 1 ] 、武士だけでなく、町民や農民にもわかりやすく学問を広めた [ 1 ] 。この功績によって 西条藩 ・ 人吉藩 ・ 紀伊藩 ・ 大和郡山藩 等の藩に迎えられた [ 1 ] 。西条藩からは10人扶持を支給されている [ 要出典 ] 。 宝暦 14年( 1764年 ) 上杉治憲 (後の鷹山)の師となる [ 1 ] [ 2 ] 。治憲は後に 米沢藩 主となり、平洲の教えを体現して米沢藩の財政再建を成功させた [ 1 ] 。 明和 8年( 1771年 )には米沢藩在国を1ヵ年とすることや 神保綱忠 らを付き添わせることなどを条件として月俸10人扶持を与えられて米沢藩の江戸におけるお抱え...