非人忍者伊藤博文の大罪外国王妃強姦強殺死体焼却証拠隠滅暗殺書証→安重根斬奸状天誅
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そして、その三・一運動が、民族挙げての運動になったのは、高宗前皇帝(太皇帝・光武帝)の急逝という事件が導火線になったという。ながらく抑圧されてきた民族の力が公憤として爆発したのは、当時のアメリカ大統領ウィルソンが主張した民族自決主義の考え方に感化されたからではなく、また、難解な漢文で書かれた独立宣言文に共感したからでもなく、殉死を覚悟して韓国の主権守護にあらゆる手を尽くしていた高宗前皇帝が疑問死をとげたからであるという。もちろん、ウィルソンの民族自決主義の主張や独立宣言文も様々なかたちで影響を与えたであろうことは否定できない。しかし、大衆動員の起爆剤となったのは、あくまでも条約批准の拒否や国書の下達、ハーグ特使派遣など主権守護に手を尽くしていた高宗前皇帝の疑問死である、というのである。日本の支配に不満を募らせていた朝鮮民族が、高宗前皇帝の急逝を、日本人による毒殺と見なして不満を爆発させ、起ち上がったということである。
当時、第2次日韓協約(乙巳条約)が不法に強制されたものであること、また、皇帝が主権守護の意思を持ち、ねばり強い外交交渉を続けて抵抗していることなどについて、韓国国民は新聞報道などでよく知っていたという。したがって、毒殺が疑われる高宗前皇帝の急逝を知らされたとき、君主の仇をうたなければならないと立ち上がった、というわけである。
それは、三月一日の早朝、東大門と南大門などの主要地域に張り出された下記のような壁新聞にはっきりとあらわれているという。
ああ、わが同胞よ! 君主の仇をうち、国権を回復する機会が到来した。
こぞって呼応して、大事をともにすることを要請する
隆煕13年正月
国民大会
また、ソウル以外の地方大都市での集会は、大部分「奉悼会」を開催するとの名文で、大衆が動員されたという。
米高官に「日韓関係改善は米国外交の優先課題」と言わしめるほどに、現在の日韓関係は冷え込んでいるようであるが、歴史認識の問題として、日本人はこうした事実にも、目を向けなければならないと思う。総督府の日本人関係者が、高宗皇帝の妃である明成皇后(閔妃)を殺害し、高宗皇帝を強制退位させたばかりでなく、日本の植民地支配に抵抗し続けた高宗前皇帝を毒殺したと疑われているのである。
高宗前皇帝の急性が毒殺であると考えられた根拠は、以前にも触れたが、要約して下記の4つに整理されている。
(1)崩御後、即時に玉体に紅斑が瞞顕し糜爛した。
(2)侍女二人が同時に致死した。
(3)尹徳栄、尹沢栄は当日、晨4時に諸貴族を宮廷内に請激し、日本人が弑殺
したのではないという証書に捺印しようとする運動に尽力したが、朴泳孝、李
戴完の両人の反駁によって証書がならなかったのはなぜか。
(4)閔泳綺、洪肯燮が玉体を歛襲するとき糜爛が早すぎるのを不審に思い、こ れを外に伝えたところ日本人警官がただちに右の2人を拿致、詰問して激論 した。
当時、すでに、パリ大学の国際法学者レイ教授が、第2次日韓協約(乙巳条約・乙巳勒約)が無効であると指摘しており、国際法学界でも受け入れられていたということが「日韓協約と日韓併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)で明らかにされている。下記は、その一部抜粋であるが、だとすれば、高宗皇帝の抵抗は当然のことであり、その毒殺説についても、歴史認識の問題として、真摯に向き合わなければならと思う。
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Ⅴ 光武帝の主権守護外交1905-1907年
2 対米交渉と米国の違約:1905年親書・電報・白紙親書
・・・
…乙巳勒約の強制直後、『ロンドン・タイムズ』は条約締結の事実を報道した。この記事は主に日本の資料を用いたもので、日本の公式立場を代弁していた。それにもかかわらず、大臣らが調印を頑強に拒むと伊藤が長谷川を動かして武力を行使し、介入した事実が報道された。この報道と、その後明らかにされた光武帝の勒約無効の外交交渉の事実を知るようになったパリ大学の国際法学者レイ教授は、1906年に『国際公法総合雑誌』に「韓国の国際状況」という論文を発表した。この論文で、彼は光武帝の勒約無効の外交交渉の事実と乙巳条約の不法性について、次のように指摘した。
ところで、極東の急送公文書の結果、先月11月の条約は、日本のように文明化した国家の精神的かつ肉体的な不当な脅迫によって韓国政府に強要されたのであった。この条約の署名は、日本の全権大使である伊藤公爵と林氏を護衛する日本軍兵士たちの威圧の下で、大韓帝国皇帝と諸大臣から得られたものにすぎない。2日間の抵抗の後、閣議はあきらめて条約に署名したが、皇帝はただちに強大国へ特使、とくにワシントンには大臣を遣し、加えられた脅迫に対して猛烈に抗議をするように命じた。
署名が行われた特殊な状況を理由に、われわれは1905年の条約が無効であることを確認することに躊躇しない。実際、私法の諸原則の適用により、公法においても、日本の全権大使による個人に加えられた脅迫は、条約を無効とする、同意不備にあたるものと認められる。
要するに、締結過程で強迫が加えられ、また皇帝がただちに勒約無効化の外交交渉を試みたという事実を根拠に、レイは乙巳条約が無効であることを明らかにした。この論文が発表されて以来、乙巳条約は強迫によって締結されたために無効となる条約の、代表的な事例として国際法学界に知られるようになった。この論文以後、他の国際法の論著にも、この事実が紹介されている。だが、日本の国際法学者である有賀長雄だけがレイの主張を受け入れなかった。彼は日本の侵略をごまかすために、1906年に書いた『保護国論』で、レイ教授の主張と、その根拠となった『タイムズ』記事のように強迫が行使されて条約が締結されても、ほかの国家も類似の行為をしたのだから「おれだけに殺人強盗の罪を問わないでほしい」という詭弁を弄した。その後、この詭弁は国際法学者の論議で一度たりとも受け入れられなかった。後述するが、レイの法律的解釈は、その後、国際法学会で検討が重ねられ、その正当性が再確認されて今日に至っている。
・・・(以下略)
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日本が韓国を併合し植民地化した当時、西欧列強諸国も武力を背景に弱小国を植民地化していた。したがって、日本の韓国併合は合法であり問題はなかった、というのが日本政府の考え方である。でも、はたしてそうか。下記、資料1~4のような文書の存在は、そうした考え方に疑問を抱かせる。
高宗皇帝(光武帝)は、第2次日韓協約(乙巳条約)締結の1905年前後に、日本の植民支配の流れに抗して、外国の元首に対し、韓国の主権守護への協力を要請する親書を数回発送しているという。そして、1906年6月22日付の光武帝の親書が、87年目にして、米国コロンビア大学貴重図書・手稿図書館に保管されている「金龍中文庫」の中から発見された。
それは、光武帝の乙巳条約(第2次日韓協約)無効宣言に関する親書であり、ハルバートを特別委員に任命して委任状を与え、米国、英国、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリア、ハンガリー、イタリア、ベルギー、中国など当時の修好通商条約対象国9カ国元首に宛てたものである。この親書が元の状態で発見されたということは、結局これが伝達されなかったと考えられる。ハルバートが密旨に沿う外交交渉に乗り出そうとした1907年7月には、光武帝は同年4月のハーグ万国平和会議に特使を派遣し、主権を回復させようとした試みによって、強制退位させられたからである。親書を発送した光武帝は、もはや大韓帝国の皇帝ではなく、したがって、委任状と親書は効力を喪失してしまったとハルバートが考えた、ということのようである。日本の強引な大韓帝国皇帝強制退位によって、韓国の主権守護の外交交渉は終わってしまったということになる。
今までに、乙巳条約締結が無効であったという根拠はいくつか示されてきた(乙巳条約締結が無効であれば、韓国併合の合法性が問われる)。
まず、ハーグ万国平和会議に派遣された李相尚正使、李儁副使、李瑋鐘の3人の特使が連名で作成した文書に、条約が皇帝の許可なしに強制された事実が明らかにされている。
また、尹炳奭教授は、日本外務省外交史料館に保管されている条約文書に、批准書がない事実を確認したという。
さらに、李泰鎮教授は、乙巳条約はもとより、いわゆる丁未条約も、国家間の条約で最も重要な手続きである、全権委任がなしに作成されたものであることを明らかにしている。
その上、この親書が発見されたのである。主権者である皇帝自ら、条約が不法かつ無効であることをはっきり示している。手続き的に様々な問題があり、おまけに皇帝が不法で、無効であるという条約が、合法であるといえるのか。日本側は、一貫して、諸条約は合法的に締結され、有効である主張してきたが、考えさせられる。下記は「日韓協約と日韓併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)からの抜粋である。
資料1------------------------------
Ⅴ 光武帝の主権守護外交・1905-1907年
──乙巳勒約の無効宣言を中心に──
二 対米交渉と米国の違約:1905年親書・電報・白紙親書
・・・
朕は銃剣の威嚇と強要のもとに最近韓日両国間で締結した、いわゆる保護条約が無効であること宣言する。朕はこれに同意したこともなければ、今後も決して同意しないであろう。この旨を米国政府に伝達されたし。
大韓帝国皇帝
この電文は勒約についての皇帝の考え──勒約無効、同意拒否──をもっとも簡潔明瞭に伝えている。この電文はハルバートによって12月11日に国務次官に伝達されたが、米国はこれを黙殺した。
光武帝はハルバートを派遣した直後、対米交渉を強化するために追加措置をとった。パリ駐在の閔泳瓚公使に、米国に急行して外交交渉を強化するよう秘密訓令をくだした。閔公使は12月7日、特命全権資格がないことを通告し、皇帝の意思を伝えるために会談を申し込み、11日にルートと会談した。ルートは12月19日付の答信を送り、「善為調処」の約定による何らかの協力は不可能であるとの立場を通報した。米国は、この答信を日本公使に送るという親切さも忘れなかった。11月末以後、めまぐるしく展開された「文書伝達者」ハルバートと閔公使の対米交渉は、結局米国の非協力でなんの成果もあげられなかった。
・・・(以下略)
資料2------------------------------
三 勒約無効宣言と共同保護:1906年1月29日国書
1906年1月29日に作成された文書は、光武帝が列強の共同保護を要請する意図を公にした最初の文書である。この文書は海外に密送され、1年後に新聞報道によって国内に伝えられた。だが、文書作成経緯と伝達過程、宣言の内容などを通じて確認できる皇帝の帝権守護の外交交渉は、まだ明らかにされていなかった。この文書は『大韓毎日申報』1907年1月16日付に次のように報道された。
1、1905年1月17日、日本の使節と朴斉純が締約した五条約は、皇帝は認可も押印もされていない。
2、皇帝は、この条約を日本が勝手に頒布することに反対された。
3、皇帝は、独立帝権を一毫も他国に譲与されたことはない。
4、外交権における日本の勒約は根拠がないし、内治上の一件たりとも認准することはできない。
5、皇帝は、統監の来韓を許可されておらず、外国人が皇帝権を擅行することを寸毫も許されていない。
6、皇帝は、世界の各大国が韓国外交を5年間の期限付きで共同で保護することを願っておられる。
光武10年1月29日
国璽
この文書が新聞に掲載された際「親書」と紹介されたが、次のような文書形式上の特徴をみれば親書と見なしがたい点がある。文書は「皇帝は…」というように三人称を用いている。親書や委任状では皇帝が自分をいつも「朕」として一人称を使っている。親書では皇帝自身が発信者であることを明示するとともに受信者を特定する。皇帝の意思であることを証明するため御璽を使い、ほとんどの場合「親署押鈴寳」という文字とともに皇帝の花押し御璽が押される。ところが、右の文書では発信者と受信者が明示されず、花押もなく大韓国璽のみがだけが押されている。…
・・・
この国書は、皇帝の他の親書と切り離しても、それ自体として注目に値する意義のある文書である。とくに国書作成の意義はその作成時期に求められる。この文書は勒約が不法に締結されてから約2ヶ月目に作成された。慣用句を借りれば、五賊と日本公使が勝手に押した「印章の朱肉が乾かぬうちに」皇帝はこれが無効であることを宣言したのである。この文書は、光武帝が乙巳年11月18日の早朝に起きた事件をまったく認めていないことを明示している。…
資料3------------------------------
4 勒約無効、国際裁判所提訴の要請:1906年6月22日親書
光武帝が1906年6月22日に作成して発送した親書は、乙巳勒約が国際法的に無効であることを立証するもっとも決定的な外交文書である。…
・・・
朕、大韓皇帝はハルバート氏を特別委員に任命し、我が国の帝国皇室と政府にかかわるすべての事項について英国、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリア、ハンガリー、イタリア、ベルギーおよび清国政府など各国と協議するよう委任した。この際ハルバート氏に親書を各国に伝達するようにさせており、各国皇帝と、大統領、君主陛下に対して、この親書で詳細に明らかにされているように、わが帝国が現在、当面している困難な状況を残らずに聞き入れてくれるよう望むものである。
将来、われわれはこの件をオランダのハーグ万国裁判所に付しようとするものであり、これが公正に処理されるように各国政府は援助してくれることを願う。
大韓開国515年6月22日
1906年6月22日
ハルバートを選んで特別委員に任命した理由は自明である。光武帝が結局、日本の主権侵害を国際裁判所に提訴し、国際公法によって解決する考えをもっていたのである。この密旨を忠実に履行するためには、9カ国の列強国家元首に対して当面の事態について「残らずに」十分協議ができる特命全権の委任をうけた外交官がいなくてはならない。皇帝が信頼するにたりる帝国官吏がいない状況で、外国との交渉であるという点を念頭においてハルバートを選んだのである。…
・・・(以下略)
資料4------------------------------
…次はハルバートが伝達するために委任された親書の韓国語訳である。
大韓国大皇帝は謹んで拝大ロシア大皇帝陛下に親書を差し上げます。
貴国とわが国は長い間、数回にわたって厚い友誼を受けて参りました。現在、わが国が困難な時期に直面しているので、すべからく正義の友誼をもって助力してくださるものと期待しております。
日本がわが国に対して不義を恣行して、1905年11月18日に、勒約を強制締結しました。このことが強制的に行われた点については、3つの証拠があります。
第1に、わが政府の大臣が調印したとされるものは、真に正当なものではなく、脅迫を受けて強制的に行われたものであり
第2に、朕は政府に対して調印を許可したことがなく、
第3に、政府会議について云々しているが、国法に依拠せずに会議を開いたものであり、日本人が大臣を強制監禁して会議を開いたものであります。
状況がこうであるため、いわゆる条約が成立というのは、公法に反するため、当然、無効であります。
朕が申し上げたいのは、いかなる場合においても断じて応諾しなかったということであります。今回の不法条約によって国体が傷つけられました。ゆえに将来、朕がこの条約を応諾したと主張することがあっても、願わくは陛下におかれては信じたり聞き入れたりせず、それが根拠のないことをご承知願います。
朕は、堂々とした独立国家がこのような不義で国体が傷つけられたので、願わくは陛下におかれてはただちに公使館を以前のようにわが国に再設置されるよう望みます。さもなくば、わが国が今後この事件をオランダのハーグ万国裁判所に公判を付しようとする際に、わが国に公使館を設置することによって、わが国の独立を保全できるよう特別に留意してくださることを望みます。これは公法上、真に当然なことでしょう。願わくは、陛下におかれては格別の関心を寄せられるよう期待します。
この件の詳細な内容は、朕の特別委員であるハルバートに下問してくだされば、すべて解明してくれるだろうし、玉璽を押して保証します。
陛下の皇室と臣民が永遠に天のご加護がありますよう、厳かに祈ります。併せてご聖体の平安を希求いたします。
大韓開国515年6月22日
1906年6月22日
漢城において、李熙・謹白
御璽
この文書の書誌的な特徴と真偽を検討してみる。この二つの文書に使用された印章はすべて「皇帝御璽」の文字が刻まれた御璽である。この印章は「寳印符信総数」に登録された御璽ではない。また「親署押鈴寳」という文字がない。したがって、皇帝の花押もなく、御璽だけが押されているのである。すなわち、ハルバートに秘密に渡された外交文書には未登録印章が使われ、花押がない。こうした形式上の問題は、それらの文書がはたして光武帝が作成したものかどうかを疑わせる。だが、「寳印符信総数」に登録された印章は、勅令や法律、詔勅などのように、内政にかかわる法令を皇帝が裁可する際に使われた花押と御璽である。…
・・・(以下略)
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相変わらず、日本の「従軍慰安婦」問題など、過去の不都合な事実をなかったことにしようとする主張が繰り返されているが、そうした主張は、世界では通用しないし、日本の孤立化を招くだけであろう。日韓や日中の関係改善のためには、真摯に過去に向き合い、共通の歴史認識をもとめて協力するしかないのだと思う。
ここで取り上げるのは、以前にも取り上げたことがあるが、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃、明成皇后(閔妃)殺害事件である。昔の事件であるとはいえ、当時の日本の指導者層の韓国に対する所業が、いかに理不尽なものであったかを思い知らされる事件である。伊藤博文を殺害した安重根も、「伊藤博文の罪状15ヶ条」の最初にこの事件を取り上げている。こうした事実をなかったことにして、「嫌韓」・
「憎韓」「反韓」の流れに沿って、「愛国心」を語る政権の危うさを指摘せざるを得ない。
下記は、いずれも明成皇后(閔妃)殺害事件に関わる日本人関係者の文章であり、まさに動かぬ証拠であるといえる。事件の背景に、興宣大院君と閔妃の権力闘争があったとはいえ、他国の王妃を殺害するなどということは許されることではない。「日本の韓国併合」山辺健太郎(太平出版社)からの抜粋である
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Ⅶ 閔妃事件について
1 閔妃事件とは何か
閔妃事件というのは、1895(明治28)年10月8日、一団の日本軍隊と日本の民間人がソウルにあった朝鮮王宮に侵入して、王妃を殺した事件である。
・・・
そこで私は、まず事件当日のもようを、当時ソウル駐在の一等領事内田定槌の談話から再現させることにしよう。
私ハ其ノ頃領事館ニ住ンデ居ツタガ、或ル朝(明治28年10月8日)ケタタマシイ銃声ニ眠リヲ破ラレタ。窓ヲ開クト未ダ夜ハ明ケ切ラヌ館内ニハ警察署ガアツタノデ、何事ガ起ツタカト巡査ニ訊イタガ、知ラヌト言フ。荻原警部ヲ起シニ行ツタガ、其ノ室ニ居ラヌ。厩舎ヘ行クト私ノ馬ガ見エナイ。ドウシタカトイ巡査ニ訊クト、警部ガ乗ツテ行キマシタト言フ。其ノ中ニ銃声ハ止ンダ。近クニハ新納少佐ト云フ海軍ノ公使館附武官ガ居ツタノデ、ソコヘ行ツテ訊イテ見タガ、何ノコトカ分ラヌト言フ。
又当時ノ外交官補日置益君モ近クニ居ツタガ、矢張リチツトモ知ラヌト言フ。
ソウシテ居ル中ニ、血刀ヲ提ゲタ連中ガ帰ツテ来テ新納少佐ノ所ヘ報告ニ行ツタ。私モソコヘ行ツテ話ヲ聞イタガ、其ノ連中ハ昨夜王城ニ侵入シテ王妃ヲ殺シタノダト云フ。ドウシテ行ツタノダト尋ネルト、最初ハ大院君(国王ノ父デ王妃トハ犬猿ノ間柄デアッタ人)ガ朝鮮人ヲ率ヰテ王城ニ侵入シ王妃ヲ殺ス筈ダッタ。ソレニ就テハ前カラ種々策謀ガアツタ。例ノ岡本柳之助ガ参謀デ大院君ヲ引ツ張リ出スノガ一番宜シカラウト云フコトニナリ、岡本ガ大院君ニ勧メテ行ツタ。其ノ時一緒ニ勧メニ行ツタノガ領事官補ノ堀口(九万一)君。同君ハ朝鮮語ハ出来ナイケレトモ漢文ニ通ジ文章ガ達者ナノデ筆談ヲシタ。其ノ結果大院君モソレデハ君側ノ奸ヲ倒ス為ニ起タウト承諾シタ。最初ノ計画デハ夜半ニ日本ノ兵隊ト警察官ガ大院君ヲ先頭ニ立テ、王城ニ入リ朝鮮人ガ王妃ヲ殺害スル筈デアツタガ、大院君ハ仲々出テコナイ。京城郊外ノ大院君ノ邸ヘ岡本ヤ堀口ガ夜中ニ行ツテ促ソウトシタガ、大院君ハ仲々出テコナイ愚図々々シテ居ルト夜ガ明ケ始メタノデ、多勢ノ日本人ノ壮士等モ一緒ニナッテ無理矢理ニ大院君ヲ引ッ張リダシ真先ニ守リ立テテ王城ニ向ツタ。王城侵入ノ際護衛兵ガ発砲シテ抵抗シタケレトモ日本兵ガ之ヲ追ヒ散ラシ城内ニ入ツタ。
サウ云フ死骸ノ始末ニ付テハ関係人カラ後デ聞イタノダガ、兎ニ角私ハ非常ニ困ツタ。公使ニ会ツテ話ヲ聞ケバ万事分ルダラウト思ツテ公使館ヘ出掛ケタカ、公使ハ、一寸待ツテ呉レト云フコトデ直グニ会ハナイ。公使ハ2階ニ居リ、私ハ下ノ待合室デ待ツテ居ルト、2階デ頻リニ鐘ノ音ガスル。妙ナコトダト思ツテ居ルト、20分バカリシテ2階ヘ通サレタ。スルト公使ハ床ニ不動明王ノ像ヲ飾ツテ灯明ヲ上ゲテ拝ンデ居ル。ソコデ私ハ「大変ナ騒ギニナリマシタネ」ト言フト、公使ハ「イヤ是デ朝鮮モ愈々日本ノモノニナツタ。モウ安心ダ」ト言フ。ソレデ私ハ「併シ是ハ大変ナコトデス。日本人ガ血刀ヲ提ゲテ白昼公然京城ノ街ヲ歩ツテ居ルノヲ朝鮮人ハ素ヨリ外国人モ見タニ相違ナイカラ日本人ガ此事変ニ関係シタコトハ隠スコトハ出来マセヌ。併シ日本ノ兵隊ヤ警察官、公使館員、領事館員等ガ之ニ関係シタコトハドウニカシテ隠シタイト思フガ、ソレニ就テハドウ云フ方法ヲ講ジタラ宜イデセウ」ト言ツタガ、公使ハ「俺モ今ソレヲ考ヘテ居ルノダ」ト言ハレタ。
公使ト話シテ居ル中ニ露国公使ガ血眼ニナツテヤツテ来タノデ私ハ席ヲ外シタガ、露国公使ガ帰ツテカラ再ビ2階ヘ上ツテ見ルト、公使ハ非常ニ悄レテシマツテ居ル。ソコデ私ハ、日本人ガ関係シタコトダケハ何トシテモ隠蔽シナケレバナルマイト繰返シ言ツテ公使ト別レタガ、偖テソレカラドウシタラ宜シイカ考ヘガ付カヌ。外務省ヘ知ラセヨウト思ツテモ電信ハ公使館ノ命令デ差止メラレテシマツテ居ル。公使館以外ノ者ハ一切電報ヲ打ツコトヲ差止メラレテシマツタノデ私モ無論電信ヲ出スコトハ出来ナイ。後デ聞ケバ「昨夜王城ニ変アリ王妃行衛ヲ知ラズ」ト云フ電報ヲ公使館カラ外務省ヘ送ツタサウダガ、ソレ切リ止メテシマツタノデ私ハドウスルコトモ出来ナカツタ。
其ノ中ニ堀口君ヤ警部ガ帰ツテ来タノデ堀口君ニ「君ハ大変ナコトヲヤッタガ、アトハドウスル積リカ、僕ニハ此ノ始末ハ出来ナイ」ト言ツタラ、何トモ答ヘナイデ黙ツテ居ル。矢張リドウシテ宜シノカ分カラナイノダ。ソコデ私ハ「僕ノ考ヘデハ是ハドウシテモ日本政府ニ始末ヲ委スヨリ他ハナイ。併シソレニハ日本ノ外務省ガ事実ヲ能ク知ラネバナラヌトコロガ外務省カラ何ヲ言ツテ来テモ公使館カラハ返事モヤラナイヨウナ状態デハ外務省デモ真相ヲ掴ミ得マイ。君ハ最初カラ事件ノ真相ヲ知ツテ居ルヨウダカラ、スッカリ其ノ始末ヲ書イテ本省ニ報告シテ呉レ」ト言ツタスルト堀口君ハ達筆ナノデ直グ長イ報告ヲ書イテ特使デアツタカ郵便デアツタカハハッキリ記憶シナイガ兎ニ角本省ニ送ツタ。
其ノ話ヲシテ居ル間ニ、突然昨夜王城に変アリ云々ノ電報ガ来タノダ。併シソレカラ引続キ詳報ヲ何モ送ラナイノデ顛末ガ分ラナカツタガ、堀口君ノ報告書ガ行ツテ初メテ驚イテシマツタラシイ。ソレデ其ノ善後策ヲ講ズル為ニ小村政務局長ガ朝鮮ニ出張ヲ命ゼラレタノダ。
私モ申訳ナイカラ進退伺ヒヲ出ソウト思フト小村局長ニ話シタラ、君ハ何モ関係ナイカラソンナコトヲスル必要ハナイト云フヤウナ訳デ出サナカツタ。小村局長ノ考ヘデハ、此ノ事件ハ京城デハ処分出来ナイカラ日本デ処分スルヨリ他ナイト云フコトニナリ、関係者ハ皆日本ヘ帰スコトニナツタ。公使館員モ軍人モ関係シタ者ハ皆召還シ、民間人ハ在留禁止、退韓ヲ命ズルコトニナツタガ、其ノ命令ヲ出スノハ領事タル私ガ言ヒ付カツタ。其ノ時在留禁止ヲ命ジタノハ47人アツタト思フガ、ソレ等ノ人間ヲ一々呼出シテ命令ヲ渡シタ。トコロガ皆大イニ其ノ時喜ンデ居タ。
殊ニ岡本柳之助トハ、私ハ斯ウ云ウコトヲシタノタカラドンナ処分ヲ受ケテモ仕方ナイノニ、在留禁止デ済メバ非常ニ有難イト言ツテ喜ビ、其ノ他ノ壮士連モ皆有難ク在留禁止命令ヲ御受ケシタ。安藤謙蔵氏ナトモ矢張リ此壮士連ノ首領株ダツタガ、ソレ等ノ連中ハ皆公使館ノ人々、陸軍々人等ト一緒ニ京城ヲ立ツテ仁川カラ船ニ乗ツタ。船ノ名前ハ忘レタガ、皆大イニ手柄ヲ立テテ、勲章デモ貰ヘル積リダツタラウカ喜ビ勇ンデ内地ヘ向ツタ。トコロガ宇品ヘ着ヤ否ヤ皆縛ラレテ牢ニ入レラレ、広島地方裁判所テ裁判ヲ受ケルコトノニナツタ。
広島デ王妃殺害事件ノ公判ガ進行シテ居ル間ニ、朝鮮国王ハ王宮ヲ脱出シテ露国公使館ニ逃ゲ込ンダ。(注=露館播遷ハ29年2月11日、三浦等の免訴釈放は1月20日。故にこの談話は事実とちがう)ソレハ露国公使館員ガ朝鮮宮内官ト通牒シテヤツタ仕事デアツタ。ソレカラ又「アメリカ」ノ宣教師ト朝鮮人ガ一緒ニナツテ日本党ノ人々ヲ暗殺スル陰謀ヲ企テタガ、ソレハ朝鮮政府ノ当局ガ皆犯人ヲ逮捕シ処分シテシマツタ。サウ云フ事件ガ次カラ次ニ起ツタノデ日本ノ方デモ、露国人ヤ米国人ガソンナ陰謀ヲ企テル空気中ニ於テハ日本人ノ犯罪ニ限リ厳重ニ検挙スル政策ヲ執ル必要ハナイト云フヤウナ論議ガ起ツテ来タ。ソレニ又一方朝鮮当局ノ方デモ王妃殺害事件ノ審理ヲ遂ゲタル処王妃殺害者ハ朝鮮人ノ何某ト決定シ既ニ死刑ニ処セラレタカラ、日本ノ裁判所ガ本件ヲ審理スル必要ハナイト云フ理由デ被告人ハ一同無罪放免ニ決定シタ。
併シ当時私ハ非常ニ苦シイ立場ニ在ツタ。ソレト云フノハ領事タル私ハ広島地方裁判所ノ嘱託ニヨリ予審判事ノ職ヲ勤メナケレバナラナカツタ。本件ノ関係人ハ公使館員初メ壮士ノ連中モ皆平素私ノ知ツテ居ル人々デ、ソレ等ノ人々ノ犯行ヲ一々調査シナケレバナラヌノニハ私モ大変困ツタ。併シ領事館巡査ノ中一番朝鮮語ガ上手デ最初カラ事件ニ関係シテ居ツタ渡辺応次郎巡査ダケハ内地ヘ帰サナカツタノデ、広島裁判所ノ依頼ニ依ツテ取調ヲスル時ニハ、其ノ巡査ニ命シ王城内ノ実地ヲ調ベサセテ報告モアル。
要スルニ、表面ハ朝鮮人ガ王妃ヲ殺シタコトニナツテ居ルケレドモ、実際ハ右ニ述ベタヤウナ次第デアツタ。
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2 事件の真相
以上のことはこれまでだいたい知られていたことである。その奥にある真相はまだ知られていない。私はつぎにこの事件についていままで知られていない2~3の事実をここに紹介しよう。当時ソウルにいた内田領事が外務省に送った報告書のなかで、この事件の善後策についてつぎのようにいっている。
事変後既ニ数日ヲ経テ日本人ノ之ニ関係セシコト最早隠レナキ事実ニ相成候ニモ拘ハラス尚当館ニ於テ公然其取調ニ着手不致候テハ外国人ニ対シテモ甚タ不体裁ニ付キ10月12日ヨ至リ先ツ警察官ヲシテ関係者ノ口述ヲ取ラシムルコトニ致候処杉村書記官ハ其意ヲ国友重章ニ伝ヘ関係者中甘ンシテ我警察ノ取調ヲ受クヘキ者ノ姓名ヲ選出セシメタルニ即チ別紙第5号及第6号写ノ通リ申出テ尚取調ヲ受ケタル節ハ別紙7号ノ通リ同一ノ申立ヲ致スヘキ様彼等ノ間ニ申合ハセシメタリ
要するに、世間体がわるいから見せかけだけの取調べをやるが、そのときの陳述内容は、「同一の申立」をするように「申合」をやらせた、というのである。ここにいう別紙第5号とは、杉村書記官からの要請にたいして、国友重章が差し出した手紙で、このなかにすすんで兇行者であることを名のりでる予定になった者の氏名をあげている。第6号は兇行者として、藤勝顕の名を追加しただけであった。
事件の真相を知るうえにもたいせつな資料だと思うので、全文引用しておく。
別紙第5号
拝啓仕候先刻之御話ニ従ヒ色々評議之末別紙ノ人名ハ何時御召喚有之候共差支無之候間左様御承知可被下候尚願クハ明日直ニ御開始有之候様希望致候先以書中草々如此御座候 頓首
10月11日夜 国友重章
杉村 清殿
ここにいう別紙の人名とは次の者であった。すなわち、
国友重章、月成光、広田止善、前田俊蔵、平山岩彦、隅部米吉、沢村雅夫、武田範之、吉田友吉、片野猛雄、大嵜正吉
以上11人に藤が加わり12人になったわけである。
領事の命令で、「同一申立」をするためにやった「申合」の内容というのは、つぎのようなもので実に人を馬鹿にしたものであった。
一、私交上○○君ノ依頼ヲ受ケテ随行入闕シタル者ナリ而シテ右ハ全ク自己ノ意
思ニ出テタリ
一、依頼ノ趣意ハ単ニ随行ト云フコトナリシモ○○君ノ真意ハ途中安心ノ為メ同行
ヲモトメシコトナラン我々モ亦之ヲ黙諾シテ応ゼシコトナリ
一、途中宮門ニ至ル迄ハ何事も無カリシガ光化門前ニ至リテ朝鮮兵相互ノ小戦興
レリ右小戦ハ蓋シ訓練隊ガ強テ入闕セントシタルヲ侍衛隊又ハ宮中巡査ハ 中ヨリ之ヲ拒ミ終ニ争戦ニ及ヒタルコトト思考セリ是時我々ハ唯○○君ニ危害 ノ及ハザランコトニノミ注意セリ
一、○○君入闕ノ趣意ハ全ク榜文ト同様ノ事ナ館リシ而シテ我々ハ之ヲ黙諾シテ
随行シタルモノナリ
一、○○君同行ノ時朝鮮人モ多数随行シ其中日本服ヲ着シタル朝鮮人モ大分見
受ケタリ
一、宮内ニ於テ騒擾興リ之ガ為メニ2、3ノ死傷者アルヲ目撃シタリ然レトモ右ハ全
ク韓服若クハ和服ノ朝鮮人等之ヲ為セシコトニテ且ツ現ニ朝鮮人ノ抜刀シテ
人ヲ殺害スルヲ見タルモノアリ尤モ未明及ビ困難ノ際ナレバ明白ニ之ヲ認ム
ルヲ得サリシ
一、我々ノ内ニモ自防及大院君防衛ノ為メ抜刀シタルモノ見受ケタルモ其誰タルヲ
詳ニセス天明ノ後チ見物ノ為メカ多数ノ日本人及洋人ヲ見受ケタリ但シ某人
分ハ詳ナラス
一、大院君無事入闕シ且ツ騒擾モ鎮静ニ帰シタルニ付同君ニ別レヲ告ケテ退闕
セリ
つまり、取調べる方から命令して、11人の容疑者がみな右のような主旨の陳述をする「申合」をしたわけである。
・・・
井上理事の報告にある「王妃殺害ノ下手者ト見込寺崎某」は一名高橋源次といい、この男が閔妃を殺した下手人であることは、本人のつぎの手記もこれを認めている。
拝呈仕候昨夜来失敬仕候陳者今朝ハ粗暴之挙止実以慙愧之至ニ御座候 宮中口吟
国家衰亡兆無理 満朝真無一忠臣
宮中暗澹雲深処 不斬讎敵斬美人
実ニ面目次第モ無之只今迄欝憂罷在候処今一友ノ話ニ依レハ或ハ王妃ナリト然共疑念ニ堪ヘス候故此儀真否御承知ニ御座候ハバ御一報被成下度奉万願候
10月8日 高橋源次
再拝
鈴木重元様
呈梧下
ここにいう「不斬讎敵斬美人」というのは、後宮の一室におしいり、戸をこじあけて2人の若い美人を引きだして斬殺したが、その2人の年齢が閔妃にしては若すぎるように見えたことと、だれも閔妃の顔を知らなかったので、一時は、人違いか思った、このことをさすのだろう。…
・・・(以下略)
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3 事件と日本軍隊
・・・
…当時韓国政府の顧問をしていた石塚英蔵から末松法制局長官にあてた報告書によると、このゴロツキどもは閔妃の死体を凌辱したらしい。
その報告書には「王妃ヲ引キ出シ23ケ処刃傷ニ及ヒ且ツ裸体トシ局部検査(可笑又可怒)ヲ為シ最後ニ油ヲ注キ焼失セル等誠ニ之ヲ筆ニスルニ忍ヒサルナリ其他宮内大臣ハ頗ル惨酷ナル方法ヲ以テ殺害シタリト云フ右ハ士官モ手伝ヘタレ共主トシテ兵士外日本人ノ所為ニ係ルモノノ如シ」と書いてある。
このように、閔妃事件というのは、日本帝国主義が朝鮮で犯した罪悪のうちもっともひどいものであった。
blog.goo.ne.jp/yshide2004/e/aec6a1ee9b7771626c63d8f709147a77
その軍主導の政治や教育に、「鬼畜米英」や中国人蔑視、朝鮮人蔑視の思想がからんで、日本は人命軽視の無謀な戦争を続け、第2次世界大戦では、国民自ら大きな被害を被ったばかりでなく、中国や韓国など諸外国に大変な被害を与えて、無条件降伏した。そして、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の支配下に入ることになった。
ところが、当初、日本の民主化に取り組んだGHQが、米ソ冷戦の激化や中華人民共和国の誕生、朝鮮戦争勃発などに影響されて、民主化方針を変更し、旧指導者層を復活させる、戦争責任者の公職追放解除、警察予備隊の創設(再軍備・旧日本軍軍人の採用)、レッドパージ、公安警察創設(政治警察復活)など、「逆コース」といわれる政策をとった。
その結果、戦前・戦中の指導者層が、政権中枢や 自衛隊、経済界、学界その他に返り咲いて、再び力を発揮するようになった。そうしたことが、先の大戦における日本の戦争行為を正当化する動きに影響を与えているのだろうと、私は思う。また、日本人自身による戦争責任の追及がほとんどなされなかった理由や、謝罪・補償を含む戦後処理が充分なされなかった理由も、そうしたGHQの「逆コース」といわれる政策の影響抜きには、考えられないことではないかと思うのである。
広島には『二度とあやまちは繰り返しませんから』と書かれた石碑がある。でも、残念ながら日本の戦争における「あやまち」が何であったのか、日本では共有されていない。だからいまだに戦争の問題を引き摺っているといえる。また、歴史認識をめぐる近隣諸国との対立の原因も、その辺にあるのだろうと考えるのである。
特に日韓関係は、安重根記念館や石碑設置問題に限らず、竹島問題、従軍慰安婦問題、首相の靖国参拝問題等々で、このところ悪化するばかりである。そして、それらは、いろいろな面で先の大戦や日本の植民地支配と関わる。だから、ここでは、「日韓協約と韓国併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)から、衝撃的な記述部分を抜粋する。こうした事実の主張にもきちんと耳を傾け、早く関係改善の糸口を見出したいものだと思うからである。
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Ⅵ 統監府の大韓帝国宝印奪取と皇帝署名の偽造
まえがき
1992年5月12日、私はソウル大学校奎章閣図書管理室長として、「乙巳条約」の原文が形式上問題が多く、純宗皇帝の名で発令された重要な諸法令の中に署名が偽造されたものが多いという事実を公開した。この発表は、当時すでに提起されていた「従軍慰安婦」問題と関連して非常な関心を集め、日本の大韓帝国国権侵奪の不法、無効を新たに確認する契機となった。発表後1ヶ月が経った6月13日、北韓(北朝鮮)外交部は、金日成総合大学の歴史学教授らが「『乙巳条約』と『丁未条約』が条約の合法性を保証できる初歩的なプロセスも踏んでいない証拠を『皇城新聞』から見付けた」と発表した。
発表に対する反応は遠くヨーロッパからも飛んできた。ハンガリー貿易大学(Hungarian College for Foreign Trade)で韓国史を教えるロリー・フェンドラー(KarolyFendler)氏が、オーストリア・ハンガリー帝国文書館(Archives of the Austro-Hungarian Empire)にも関連資料が所蔵されているというニュースを『コリア・ヘラルド』紙に知らせてきた。該当文書は「乙巳条約」当時、韓国駐在ドイツ外交官だったフォン・ザルデルン(vonSaldern)が、事件発生後、3日目にドイツの首相フルスト・フォン・ブロウ(Furst vonBulow)に送った報告書で、ここには次のような事実が記されていると知らせてきた。つまり高宗皇帝が伊藤博文日本大使の提案に対して、最後まで「駄目だ」を貫き、外部大臣の朴斉純も皇帝の前で自分は条約に署名した覚えはないと語り、皇帝の側近の一人がザルデルンに、数分前に、条約文書の外部大臣捺印は日本公使館の職員が官印を強制的に奪って押したものだと語ったことなどを明らかにしているというのである。
翌年の1993年7月31日には、日本で結成された「国際シンポジウム実行委員会」が、「『韓国併合』はいかになされたか」という主題で国際シンポジウムを開催した。この会議を通じて韓国、北韓、日本の三カ国の学者がはじめて一緒に集まって互いの見解を交換した。
「乙巳条約」をはじめ韓・日間の重要条約の問題点に対する関心は、1993年10月24日に金基奭教授が高宗皇帝の親書を発見したことで一層高まった。金教授は米国ニューヨーク・コロンビア大学の貴重図書館および手稿図書館で、高宗皇帝が9カ国の修好国国家元首に「乙巳条約」の無効性を解明しながら、大韓帝国の国権回復に協力を要請する親書9通と併せてハルバートを特使に任命する委任状などを発見し、これを公開した。さらに1994年3月1日付の「東亜日報」に報道された、高宗皇帝のもう一つの親書に関する資料も大変重要な内容を含んでいる。この資料は、退位させられた高宗皇帝が1914年12月22日にドイツ皇帝にあてた親書を、北京駐在ドイツ公使のヒンツェ(Hintze)が受け取り、ドイツ語に翻訳したものだ。資料発掘者の鄭用大氏は、親書の原本がドイツのどこかにあるものと推測したが、いずれにせよこの資料は、高宗皇帝が退位させられた後も引き続き、国権回復のための外交闘争を展開させていたという証拠として、大変重要な意味を持っている。
資料の内容のうち、自分が使っていた帝国の国璽・御璽などの実印が、今は全て敵の手中に収まり、この手紙ではそれらを使うことができず、自分が日常的に使う印章を押して証明するしかないと明らかにしているのは、この論文で筆者が明らかにしようとする皇帝の署名行為の事実と関連して、たいへん注目される内容である。
日本の大韓帝国国権侵奪の不法性は、以上のように関連資料が引き続き発見、発掘されることで、これ以上否定できなくなった。今まで明らかにされた事実だけにもとづいても、彼らの行為は不法というより犯罪として規定しなければならない状況だ。遅きに失した感はあるが、学者らが使命感をもってこれに対する徹底した真相究明を行うならば、より詳細な事実が明らかになるだろう。
この論文は、2年前に筆者の責任の下に発表した「乙巳条約」の文書の形式上の欠陥および純宗皇帝の署名偽造に関する諸問題を整理することを目的としている。私はこの間、すでにこの問題に関する発表を2度行った。1993年3月23日に韓日文化交流基金の第25回韓日文化講座で、「純宗勅令の偽造署名の発見経緯とその意義」と題して最初の発表を行い、同年7月に東京国際シンポジウムでも「『乙巳条約』、『丁未条約』の法的欠陥と道徳性問題」と題した論文を準備して参加した。しかし、2度にわたる発表は全て整理段階で行ったものであり、満足できるものではなかった。この間、多くの学者の見解を聞き、また前に紹介したように金基奭教授、鄭用大氏らによって新しい資料が発見されたことで、私の見解はより一層、強い裏付けを得た。未だ確認しなければならない事がたくさん残っているが、当初、捕捉された日本側の犯罪的不法行為は明白に指摘できるようになり、この間の調査を総括的に整理する意味でこの論文を新たに書いた。
侵略者が侵略対象国の国璽もしくは御璽を奪い、重要公文書に勝手に使用して、法令の発令者である皇帝の署名を偽造した事実は、法令自体の効力喪失はもちろん、当然なこととして歴史の審判を受けるべき犯罪行為である。このような行為は、日本が「乙巳条約」に大韓帝国の外交権を剥奪した後、ふたたび「丁未条約」を通じて内政権を奪う過程で犯したものである。したがって、これに対する解明は、「乙巳条約」の不法性に対する指摘とともに、日本帝国の大韓帝国「併合」は成立しなかったという明白な証拠となるだろう。
この論文は、国璽・御璽奪取の状況と、統監府文書課職員らによる皇帝の署名偽造の恣行過程を明らかにするだろう。統監がこうした犯罪行為の主役だったならば、近代韓・日関係史に対する認識は、現在と根本的に変えねばならないだろう。
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3 純宗皇帝署名の偽造と統監府
2 署名偽造の実状
1907年10月、統監府が「丁未条約」の実行を目的に編制を改編した後、大韓帝国の各種法令類の制定は、次のような過程を経て達成されるようになった。まず、当時該当各部大臣官房室が起案して(各部起案用紙使用)内閣の書記長に渡すと、内閣では皇帝に決裁を申請する文案を作成し、これを添付して(内閣起案用紙使用)統監府に渡す。「丁未条約」に従い、全ての法令制定は事前に統監の承認を受けるようになっていたからだ。統監府に渡った文書は、統監官房文書課が受け付け、統監に見せ、彼の”承認”を得るという手続きを踏む。この手続きが終われば該当法令は事実上確定したのも同じだが、形式的には該当文書を内閣が純宗皇帝に提出し、御名の親署決裁を受けるという順序が残っている。問題の署名偽造は、まさにこの最終過程を省略しながらしでかされたのである。
これについての具体的な検討のため、まず、当時通用していた大韓帝国の立法関係公文書形式についての考察から始めてみることにする。
朝鮮王朝は1894年11月の甲午改革の時、朝廷の各種公文書形式を大きく変えた。歴代にわたって使用してきた『大典通編』のものを捨てて新制に変えた。その中で、国王が命令、制定するものとして勅令、法律、詔勅などがあった。この法令形式は全て1910年8月に大韓帝国が日本に強制併合されるまで存続した。
現在、ソウル大学校奎章閣に所蔵されている1894~1910年間の3種類の諸法例の件数は、次の表3のとおりである。皇帝の署名が偽造されたものは、1907年~1908年度の分60件に達する。(表3略)
・・・(以下略)
3 文書課と署名偽造
それでは、皇帝の署名偽造の犯人たちは誰か。前述の偽造署名例示には、互いに異なる筆跡が5,6個もある。また、偽造が事務的に処理されたようであることもあらわになった。統監府の勢いが凄まじかった時期に5、6人が集団で回し合いながら大韓帝国皇帝の署名を偽造できる者たちとは、統監府の日本人官吏以外に想像できる対象はいない。当時の法令制定の手続きを見ても、統監府の文書処理および管理制度の整備過程および状況を見ても、統監府の官吏たちが主犯であることは疑う余地がない。
大韓帝国の内閣側もこれを手助けしただろうが、それも文書担当責任職にすでに日本人が任命されている状態にあったので、結局は統監府がやったことに変わりはない。制度的、現実的状況から見て、統監府の統監の黙認の下に、傘下の文書課職員たちが内閣と各部に配属されている日本人書記官の助けを借りて署名を偽造したことは疑う余地がない。しかし、私はこれをもう少し確実に明らかにするために、上の各種偽造署名筆跡のうちの一つを書いた人間を捜すことにした。偽造事例のうち、1907年12月23日付の(7)~(28)の22の勅令に加えられた偽造署名の筆跡の主人公を捜すことにしたのである。
調査対象にあがったこの筆跡は、問題の516個の筆跡のうち、最も達筆だと言える。私はこの点に留意し、筆跡の主人公を追跡してみたが、私が嫌疑をかけた人物は前間恭作だった。彼が達筆で多くの筆跡を残したことが、私が彼に注目する契機と言えば契機だったかも知れない。また、彼の生涯に関する既存の一つの履歴書的整理が私の調査に大きな助けとなった。著名な日本の韓国史研究家末松保和教授が前間の遺稿『古鮮冊譜』の完刊(1957年)に付けた「前間先生小伝」が、彼の行跡追跡に大きな助けとなった。
前間恭作は開港以後、韓国学の研究に従事した日本人第1世代に属する。彼は韓国の書誌、言語、文学、歴史などに関する多くの著書と論文を残したが、とくに肉筆で書かれた原稿として影印出版して出した著書が多く、日本人学者の間で賞賛されていた。私が彼に疑いを持つようになったのは、彼の次のような特別の履歴と、達筆の所持者という二つの事実が合わさっていた。彼は韓国学関係の著述を本格的に出す前に、日本公使館の通訳官として活動していた際、初代統監伊藤博文の側近、腹心となって、統監府の文書課にも深く関与した履歴を持っていた。そして、彼が「乙巳条約」の不法締結過程に大変活躍したということも、既存の研究で、すでに明らかにされていた。したがって、彼に対する疑いを持つのは当然だった。
それではまず彼の履歴書を見てみることにする。…
・・・(以下略)
blog.goo.ne.jp/yshide2004/e/32ab31c36144a08195550e0cc472d015
また、安重根の裁判で検察官を務めた溝淵孝雄が、安重根の「伊藤の罪状15ヶ条」を聞き終わって、現状を的確にとらえた鋭い指摘に驚き、安の顔をじっと見つめ、「いま、陳述を聞けば、そなたは東洋の義士というべきであろう。義士が死刑の法を受けることはあるまい。心配しないでよい」と思わず言ってしまったという事実にも触れた。他にも、安重根と関わった日本人が、彼を高く評価していた事実が 伝えられている。
「安重根と伊藤博文」中野泰雄(恒文社)には、次のような文がある。
”…大連からハルビンまで伊藤と同行し、事件後、傷の手当てを受けて伊藤の遺骸とともに大連にもどった田中(安重根の銃弾を足に受けた満鉄理事田中清次郎)が、後に小野田セメントの社長から会長となる安藤豊録の質問、「今まで会った人の中でだれが一番えらいと思われるか」に答えて、「それは安重根だ。残念ながら」と言ったというが、その証言は、中江兆民の『一年有半』(明治35年9月2日発行)とともに、伊藤の虚像を粉砕して、正体をあらわすものといえよう。……「大韓国人安重根」は伊藤を日韓両国民の「逆賊」として処断しようとした。生誕百年をすぎて、彼が獄中で書いた自伝と『東洋平和論』は日本近代史の真の姿を照射しはじめている。”
上記の満鉄理事田中清次郎の言葉は、安藤豊録の書いた『韓国我が心の故里』にあり、安藤が1922年5月に、安重根の故郷を訪ねた思い出も綴られているという。その中に「安義士は伊藤公を殺した日本人の仇敵である。その住居に行くことは日本人にとって聊か憚りがある。韓国人は当時の警察の空気からいって多少遠慮せざるを得ない情勢にあった」と安藤自身が書いていることを「伊藤博文を撃った男 革命義士安重根の原像」(時事通信社)で、斎藤充功ノンフィクションライターが紹介している。
また、彼(斎藤充功)は、安重根に魅せられた典獄(監獄の事務をつかさどる官吏)「栗原貞吉」の親族を探し当て、安重根に関する証言を得ている。下記は、いずれも孫娘の証言である。
「私は母から聞かされた話で、二つだけは今でもはっきり覚えています。一つは、役人を辞めた理由で、祖父は、あんな立派な人物を救うことができなかったのは自分に力がなかったことと、監獄の役人の限界を思い知らされたことで、随分悩み、それで役人を辞めたそうです。
それに、もう一つの話は、安さんが処刑される前日、祖父は安さんと会い、遺言というんでしょうか、何か希望することがあれば自分ができることは何でもすると約束したそうです。そして、その約束は絹地でできた韓服を死に装束として安さんに着てもらうことのようでした」
「安さんが身に着けた白絹の韓服ですが、母は、官舎で祖母や姉たちが祖父の言いつけで夜なべして生地から寸法を取り、縫い上げている姿を目をこすりながら見ていたそうで、後になって、祖母から話を聞かされたそうです。その話とは、かいつまんで申しますと、祖父が安さんと約束した遺言のようなもので、安さんは、見苦しい死に方はしたくないので、死に装束は国の礼服である白絹の衣装を身に着けたい、その衣装を差し入れてほしいと、祖父に頼んだそうです」
「日にちははっきりと覚えていなかったようですが、官舎には毎日のように韓国の人が訪ねてきて、安さんの助命嘆願を祖父にお願いに来ていたというんです。それと、祖父は処刑直前に安さんに『助けることができずまことに申し訳なかった』と謝ったというんです。私は、広島で晩年の祖父と生活したこともありまして、母から聞いたこの祖父の言葉は本当だと信じているんですの」
安重根は栗原貞吉に一書を揮毫したという。
「安重根と日韓関係史」(原書房刊)の著者、市川正明教授は、下記のように「安重根が早くからカトリックに帰依していたキリスト教徒であったことからすれば、安重根の思想が単に民族主義者であったばかりではなかったのではないかと思われる」と、彼の言動の背後に、キリスト教(ヒューマニズム)の影響があったのではないか、ということをにおわせている。
私はそれを、彼の言動全体で感じるとともに、獄中記「安応七歴史」の中の、日本人捕虜釈放の話の部分で、特に強く感じた。安重根は、下記のように、日本人捕虜に武器を返還して釈放し、仲間に不満を抱かせているのである。下記は「安重根と日韓関係史」市川正明(原書房刊)からの抜粋である。
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四 安重根 小伝
死に臨んで
この公判については、外務省の倉知鉄吉政務局長と小村外相との間に、電信の往復がなされている。その結果、「政府においては、安重根の犯行は極めて重大なるを以て、懲悪の精神に拠り、極刑に処せらるゝこと相当なりと思考す」と、小村外相より政府当局の裁判に対する指示がなされたが、「高等法院長に交渉したるところ、同院長は大いに当惑し、政府のご希望に副うことの非常に困難なる」旨の意思表示がなされ、若手職員中には、「司法権独立の思想より法院政府の指揮を受くる姿」となるのに反対する者が多かったが、結局「安重根に対しては、法院長自身は死刑を科すべしとの論なるを以て、政府のご希望もこれにある以上は、先づ検察官をして死刑の求刑を為さしめ、以て地方院において目的を達するを努べく、もし万一にも同院において無期徒刑の判決を与うることあるときは、検察官をして控訴をなさしめ、高等法院おいて死刑を言い渡すことゝなすべし」として、あらかじめその量刑を決していた。
翌1910年3月26日、安重根は刑場に立ち、欣然として、「私はみずから、韓国独立のために、東洋平和のために死ぬと誓った。死をどうして恨もう」と云い放った。
そして韓国服に着がえて従容として死に就いた。時に32才であった。
公判を終えて宣告を待っていた安重根を取材した「満州日日新聞」は、「12日朝、重根の弟、定根、恭根の2人は恐る恐る検事局に出頭して、13日兄に面会を願出たのが、其用向きは母からの伝言で、愈々(いよいよ)死刑の宣告を受けたなら、潔い死方をして名門の名を汚さぬよう、早く天国の神の御側に参るようにと伝えることにて、2弟は涙ながら物語り出でて、許可を得たる後、悄然として引き取れり」と報じている。安重根は第1審で死刑判決を受け、上告の道があったのにかかわらず、その道をとらず、従容として死の道を選んだ背景には、この母の伝言があったことによるのである。
安重根をして伊藤博文を銃撃させた動機は、彼のナショナリズムに根ざしたものであった。
安重根の伊藤博文狙撃行為は、抗日義兵闘争に立ちあがった重根にとっては、その延長線上にあるものの闘いの一つの形態としての抗日テロというふうに、これをとらえることができる。
たしかにこの日の安重根の狙撃行為は、韓国の将来に対する強い危機意識によってもたらされたものであり、それまで義兵中将として一群の義兵を率い、危機に瀕した韓国の命運を案じ、身をもってこれを救うために努めてきた安重根にとっては、祖国に危害を及ぼしてきた日本帝国に対する闘いの一環としてその狙撃行為があったのであるが、その対象が伊藤博文であったことは、伊藤が韓国の国運を大きく狂わせるにあたって主役を演じたものであったことによるのである。すなわち、伊藤が初代統監として辣腕をふるった結果として、日本帝国は具体的には伊藤の姿を借りて韓国人の前に現れ、その眼底に強烈な印象を残すことになった。伊藤博文はそれほどまでに安重根の心に、拭いがたいものを刻みつけてきたのである。
つまり、安重根の狙撃行為は、私憤のまぎれこむ余地のない、まさしく民族的公憤によるものであったが、それだけではなく、安重根が早くからカトリックに帰依していたキリスト教徒であったことからすれば、安重根の思想が単に民族主義者であったばかりではなかったのではないかと思われる。
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九 安重根の獄中記(自伝)の新訳
1909年旧11月1日・12月13日書き始め
安応七歴史
……だとすれば、今日、国の内外の韓国人は、男女老少問わず銃を担い、剣を帯びて、一斉に義兵を挙げ、勝敗をかえりみることなく決戦を挑み、後世の物笑いを免れるべきである。もし戦いが不利になっても、世界列強の公論によって独立の望みがないわけではない。いわんや日本は5年以内に必ず露・清・米の三国と戦いを開くだろう。これは韓国に対して大きな機会を与えるものである。その際、韓国人にもし予め備えがなければ、日本が敗北したとしても、韓国はさらに他の賊の掌中に入ることになるだろう。だから、今日より義兵を継続して活動させ、絶好の機会を失わないようにし、みずから力を強大なものにし、みずから国権を回復し、独立を健全にすべきである。つまり、何もできないと考えることは滅びる原因であり、何でもできると考えることは興隆の根本である。したがって、自ら助くるものは天も助くという。諸君よ、坐して死を待つべきであろうか。それとも憤起して力を振るうべきであろうか。決心し、警醒し、熟思勇進することを望むものである。このように説明しながら、各地方を歴訪した。
自分の説を聞いた者のうち、多数の者は服従し、あるいはみずから戦いに参加することを願い出、あるいは武器を提供し、あるいは義捐金を出した。こうしたことは、義兵を挙げるための基礎とするに充分であった。このとき、金斗星、李範允等みな一致して義兵を挙げた。これらの人々はさきに総督となり、中央官庁に大いに重用された者であった。自分は参謀中将に選ばれた。義兵や兵器を秘密の内に輸送し、豆満江の近辺に集結した後、大事を謀議した。この時、自分は、次のように論じた。現在、われわれは300人に過ぎない、したがって、賊の方が優勢で、我が方は劣勢であるから、賊を軽んずるべきではない。いわんや兵法を無視するべきではない、かならずや万全の策があるにちがいない。その後で大事を図るのがよい。いま我等一たび義兵を挙げても成功することができるかどうか明らかではない。そうだとすれば、かりに1回で成功しなかったならば、2回、3回、10回と繰り返し、百回やぶれても屈することなく、今年成功しなくても、明年を期し、明年あるいはその翌年、さらには10年、百年と、持続させるべきである。もしわれわれが目的を達成できなければ、子供が代わって受けつぎ、さらにその子孫がこれに代わり、必ずや大韓国の独立を回復するまでやめない。先ず、前進し、後退し、急進し、緩進し、予備し、後備し、具備し、いろいろやった後必ず目的を達成するよりほかにないのである。そうだとすれば、今日の先進の師を出す者は病弱少年をも合すべきである。その次の青年等は社会民志の団合を組織し、幼年の教育を予備し、後備し、各項の実業を勤務し、実力を養成し、しかる後に、大事をなすことが容易であろうと。聞く者の中には賛同する者が多くなかった。なぜかといえば、この地方の風気頑固なるものは、第1には権力ある者と金持ち、第2に腕力の強い者、第3に官職の高い者、第4に年長者である。この4つのうち我々は一つも掌握していない。それでは、どうして能く実施できようか。これに対して、不快感をおぼえ、退き帰る気持ちを起こした者があったとしても、すでに騎虎の勢いがあふれ、どうすることもできない。時に領軍諸将校は隊を分つて斥候を出し、豆満江を渡った。1908年6月のことである。昼は伏して夜に行軍して咸鏡北道に到着し、日本兵と数回衝突し、彼我の間には死傷者や捕虜が出た。
そのとき、日本軍人と商人で捕虜となった者を連れてきて、尋ねてみた。君等はみな日本国の臣民である。なぜ天皇の聖旨を承けないのか。日露開戦の時、宣戦布告書のなかで東洋平和維持と、大韓国の独立堅持といいながら、今日このように侵掠するようになったのでは、平和独立ということができないではないか。これは逆賊強盗でなくて何であろうかと、その人々は涙を流して、これは我々の本来の気持ちではなくてやむを得ず行動に出たものあることは明らかである。人がこの世に生まれて生を好み、死を厭うのは普通の人情であって、いわんや我々は万里の戦場で無残にも朽ち果ててしまうことを憤慨しないわけがない。こうした事態は他に理由があるわけではなく、これはすべて伊藤博文の過ちである。皇上の聖旨を受けず、ほしいままにみずから権勢を弄し、日韓両国の間に貴重な生霊を殺戮すること数知れず。彼らは安心して就寝し、恩賞に浴している。我々は憤慨してみてもどうすることもできず、やむなくこうした状況に立ち至ったのである。いわんや農商民の渡韓する者ははなはだ難渋している。このように国も疲れ、民も疲れているのに、ほとんど顧みることをせず、東洋の平和は日本国勢の安寧となるということを、どうしてそれを望むことができようか。我らは死んでしまうとしても、痛恨の念はとどまるところがないといって痛哭した。自分は君等のいうところを聞いて、君たちは忠義の士というべきである。君等をただちに釈放する。帰ってこのような賊臣を掃滅せよ、もしまた、このような奸党が出てきて、端なくも戦争を起こし、同族隣邦の間に侵害の言論を提出する者がある場合には、すべてこれを取り除け、十名足らずの人数でも東洋の平和を図ることができる。君たちはこうしたことをやることができるかどうか、と言うと、彼らは勇躍してこれに応じたので、ただちに釈放した。彼らは、我々は軍器銃砲等を帯びずに帰投すれば、軍律を免れることが難しい。どのようにしたらよいかと聞くので、自分は、それではただちに銃砲等を返還しよう。また、君らは速やかに帰り、捕虜となったことを口外せず、慎重に大事を図れと言った。その人たちは深く感謝して立ち去って行った。
その後、将校たちがこの事件を聞いて不満をもち、自分に対して、なぜ捕虜を釈放したのかと質した。自分は、現今万国公法によって捕虜を殺戮することはできず、後日送還することになっている。いわんや彼等のいうところを聞くに、真情発する美談であり、これを釈放せずにどのようにすれえばよいのかと答えた。多くの人々が、彼等は、我等義兵の捕虜を余すことなく無残にも殺戮するだろう。我等としても殺賊の目的をもってこの地に来て野宿しているものである。しかも、このように苦労しながら生捕りにした者を釈放するのであれば、我等は何のために戦っているのかわからないではないか、と彼らはいう。そこで自分は、そうではない。賊兵がこのような暴行を働くことは神も人も共に許さぬところのものである。ところが、いま我等も同じように野蛮な行動を行なってもよいのであろうか。いわんや日本4千万の人口をことごとく滅ぼして、しかるのち国権を回復するという計をはかろうとするのか。彼を知り己を知れば百戦百勝す、現在は我らが劣勢で、彼等は優勢であって、不利な戦闘をすべきではない。ひとえに忠孝義挙を以てするのみでなく伊藤博文の暴略を攻撃して世界に広布し、列強の同感を得て、国権を回復すべきである。これがいわゆる弱小な力でよく強大な敵を除き、仁を以て悪に敵するの法である。諸君らは、いろいろと言うことはないと。いろいろ論じてみたが、しかし、議論が沸騰して容易に承服せず、将軍のなかには中隊を分けて遠く去る者もあった。
その後、日本兵の襲撃をこうむり、衝突4,5時間におよび、日が暮れて霧雨が降りそそぎ近い所も見えなくなった。将卒みな分散し、生死の判断もつけ難く、どうすることもできず、数十人と林間に野営した。その翌日、6、70名の兵隊に逢ったが、各隊を分け、ちりぢりに逃げ去ったという。そのとき、いずれも2日間にわたって食事をすることができず、皆飢えこごえていた。そこで、みなの者を慰め諭した後、村落に身を寄せて麦飯を求めて食べ、僅かに飢えと寒さをしのいだ。しかし、多数の者は承知せず、紀律に従わなかった。このような烏合の衆は、孫子、呉子、諸葛孔明がまた生まれて来たとしてもどうすることもできない。さらにその他の兵を探しているうちに伏兵に逢い、狙撃され、散り散りになった兵卒をまた集合させることもむずかしくなった。自分はひとり山上に坐し、自ら笑って誰を怨みだれを仇とすることもないと自分に言った。さらに発憤して四方を捜探した末、幸い2,3人に逢い、これからどうすればよいのかを相談したが、4人の意見は同じではなかった。或る者は生きのびることを図ろうとし、或る者は自刃して死のうといい、或る者はみずから日本軍に投降しようという。自分は熟慮ののち、たちまち一首の詩を作った。「男児有志出洋外、事不入謀難処身、望須同胞誓流血、莫作旦間無義神」(男児志を持って国外に出たのである。大事がうまくいかず身の処し方に難渋している。ただ君たちに望むことは、同胞の流血に誓って大義のない行動をとることをしないようにしてほしい)と吟じ終えて、みなの者は思い思いにしたらよい。自分は山を下りて日本兵に決戦をいどみ、大韓国2千万人の中の一人として義務を果たした後に死ぬつもりである。こう言って、武器を携帯し、賊陣を探して立ち去ろうとした。そのうち、一人が身を乗り出して来て慟哭しながらあなたの意見はきわめて間違っている。あなたはただ一個人の義務を考えているが、幾多の生霊ならびに後日の多大な事業を顧みないのか、今日の情勢では死んでも全く益がない。責任の重い身体であるのに、どうして草や塵芥のように棄てていいものだろうか。現在は江東(露国領の地名である)に渡って、後日の好機会を待ってさらに大事を図るべきである。これは十分合理性がある。どうして諒解してもらえないのだろうかと言う。自分はさらに考えをめぐらしたのち、あなたの言うことは確かにそのとおりである。……
・・・(以下略)
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日本はドイツとともに第二次世界大戦で敗北した。しかし、その戦争責任や戦争犯罪に対する姿勢にはかなりの相違がある。ドイツは反ナチ法を定め、ナチ戦犯の永久訴追を決めている。そして、ナチズムに基づく過去の行為に時効はないという。しかしながら、日本には反ナチ法にあたるようなものがない。のみならず、戦後、日本人自身によって戦争責任や戦争犯罪の追及・総括が行われることも、ほとんどなかった。
逆に、米ソ冷戦の影響であろうが、戦争に関わって公職追放された多くの人物が、何年も経ないで追放を解除され復帰した。一例をあげれば、戦時中第一航空戦隊の参謀として真珠湾奇襲攻撃の作戦立案に関わった源太実中佐(当時)は、自衛隊の初代航空総隊司令であり、第3代航空幕僚長である。後に、政治家としても活躍している。
国内で、「大東亜戦争肯定異論」が公然と議論されたこともあった。そして、多くの閣僚が戦争に関わる発言で世を騒がせ、いまだに、靖国神社惨敗問題が近隣諸国と溝を深める原因となっている。
昨年、安倍首相は参院予算委員会で「侵略の定義は定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかで違う」と答弁した。また、中国のハルビン駅に、韓国で英雄とされている安重根の碑の設置を進める朴槿恵韓国大統領の発言に関して、菅義偉官房長官は、「我が国は”安重根は犯罪者”と韓国政府に伝えてきている。このような動きは日韓関係のためにはならない」と言い切った。あらためて、戦争責任や戦争犯罪に関わる歴史に、真摯に向き合う必要性を感じさせられた。植民地支配の問題も、きちんととらえ直すべきだと思う。
下記は、第二次日韓協約(乙巳保護条約)の調印に関わった林権助公使の『わが七十年を語る』(1935年刊)と、伊藤の幕僚として調印時に現場にいた、陸軍大佐西四辻公堯の『韓末外交秘話』(1930年孔版)および『大韓季年史』(鄭喬、韓国国史編纂委員会 『韓国史料叢書』第5所収)と『朝鮮独立運動の血史』(朴殷植)に、記録として残る第二次日韓協約(乙巳保護条約)調印強制に関わる記述である。多少の相違はあるが、強制の実態をとらえていることにかわりはない。日本の植民地支配の合法性が問われる生々しい記録である。「日韓協約と韓国併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)からの孫引きである。
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Ⅲ 乙巳保護条約の強制調印と問題点
琴秉洞
2 強制調印の実態
2 保護条約「調印」の実態(史<資>料中の条約調印)
①日本側の公的記述
保護条約調印に関する経緯は、『日本外交文書』第3巻第1冊中の「奉使記事摘要」の第4号「日韓新協約調印始末」に日本側の公的見解として記述されている。
これによると、林公使は11月17日午前11時、日本公使館で各大臣と条約案を協議して「大体に於て異議な」しとなったが、朝鮮側はこれを持って宮中で御前会議をひらく。参政大臣韓主?は結果を高宗に報告。
ところで、「皇帝陛下は再三、円満に妥協を遂げよとの勅令を下されるに拘わらず、参政始め各大臣の意見は終に之を拒否するに決定したり」と、林は伊藤に報告している。
要するに高宗も各大臣も拒否ということである。林公使の報告を聞いた伊藤は、また宮中に行き、皇帝に会いたいという。高宗は宮内相を通じてノドが痛いので会えないという。そして協議案に至ては朕が政府大臣をして商議妥協を遂げしめんとす。卿、冀くは其間に立ち周旋善く妥協の途を講ぜ」よ、と伝言したという。
この日、王宮内での閣僚協議会に、伊藤が出席して「只今、陛下は勅令を各大臣に下し、妥協を遂げよとの御沙汰なるに、各大臣は無責任にも之が妥協を拒」んでいると非難し、「首相たる韓参政は各大臣の意見を徴し、若し不同意を唱ふる大臣あらば、其如何なる理由に基づくかを一応承知したし」といって、韓参政大臣をして各大臣に可否を問わしめる形をとり、「多数決」だから可決しろと迫り、「閣下は本案を拒否し、終に日本と絶交せんとの意志を表示せらるるや、予は我が天皇陛下の使命を奉じて此任に膺る、諸君に愚弄せられて黙するものにあらず」と凄むのである。
この時韓主・は「日本と絶交せんなどとは思いも寄らず」といい「この妥協に至っては思慮百端、如何せん終に吾意を翻へす能わず、所謂、匹夫の志奪ふべからざる」などといいながら泣く。「因て、欷歔涕泣するに至れり」と記録されているのである。
②『朝鮮最近史』(戸叶薫雄・楢崎観一、1912年刊)略
③『わが七十年を語る』(林権助、1935年刊)
この条約の日本側「全権」であった林権助は、この本(回想記)の中で、かなり忠実に、また、時には虚実を織りまぜてこの時のことを述べている。
林は調印問題と軍事的配置とに関連しては、朝鮮の大臣らが途中で逃げないように「用慎のために憲兵か何かを予め手配しておいて、途中逃げ出さぬように監視してもらいたい。勿論、名目は護衛という形を取る」といい、また、「いざ条約締結となって閣員のうち、一人や二人は自殺する男が出来はせぬかといふ懸念」があるので、これらの予防を長谷川大将に頼んだ、といっている。
そして交渉「成立」の例の閣僚協議会については、「伊藤さんは予めの打合せがあるので、すぐ王城内の協議会の席へ来られた。そこで、かいつまんで話し合いの顛末を、わたしから報告した。(中略)伊藤さんはこのわたしの言につづいて、段々と急ぎ決定すべき必要を説き出した。その席上は異常な緊張をしめしてゐる。
そのとき一騒動がおっぱじまった。朝鮮側の主席である。総理の韓主?の様子が特に尋常でない。余程激してゐる様子だとみてゐるうちに、突然さっと席を蹴って立ち上がった。そして足取りも凄じく、この広間を国王の御座所の方に向かって出ていった。どうしても此の会議の決定を喰止めようとする気魄が看取せられた。すると大奥の方で女官どもの、けたたましい喚き声とともに騒々しい足音が聞えた。
何事がおっ始まったかと朝鮮側の人はおどおどしてゐる。それは王様の許へ行かうとして去った首相が、よほど興奮してゐたのだらう。まちがへて王妃の厳妃の室に闖入したわけだ。これはしまったと気がついたときにはもう遅い。非常な失態だ。急いで出るには出たものの、もう、王様の御座所へ行く気力もなく、失神したままで吾々のゐる会議室の前まで戻って、うんと卒倒してしまった。その騒ぎの顛末を、わたしの席へ報告してきたので、わたしは、『水でも頭に掛けて冷やして置けば宜い』と言ってやった」
ここで林権助のいう韓主?が誤って厳妃の室に入ったという記述は、他の資料には出て来ないものなので真偽の程はわからない。
④ 『韓末外交秘話』(西四辻公堯 1930年孔版)闖
西四辻公堯(陸軍大佐)は伊藤の幕僚として現場にいた人物である。彼は、林権助よりも素直に「交渉」の場について記録している。
「大観亭ニ吉報ヲ待チアグンデ居タ二人侍ナラヌ伊藤候ト長谷川大将ハ、勘平ト御軽ノ口説ガ余リニヒマドルノニ業ヲ煮ヤシ、小山憲兵隊長以下多数ノ憲兵警官ヲ引具シテ午後11時ト云フニ馬車ヲ飛バシテ王宮ヘドットバカリニ繰込ンダ。而シテ宮内大臣李載克氏ヲ通ジテ拝謁ヲ願フト『朕ハ咽喉ヲ患ヒ謁見スル事ガ出来ヌカラ協約ノ事ハ各大臣ト協商妥弁セヨ』トノ御諚ガ降ッタ。其処デ伊藤候ハツカツカト議場ニ入リコミ、全権委員ノ林公使ヲソッチノケンイシテ鉛筆ヲ舐メナガラ各大臣ノメンタルテストヲ初メタ。
『何時マデ愚図愚図考ヘテ居タッテ埒ノアク話デハナイ、唯今皇帝カラ余ニ各大臣ト商議セヨトノ勅諚ヲ賜ハッタカラ、一人一人ニツキテ反対カ賛成カノ意見ヲ訊クカラ答弁セラレタイ。第1ニ参政大臣ノ意見ハ』……
スルト韓主?参政大臣ハ泣キ相ニナッテ絶対反対ダト云ッタ 『然ウカ』ト伊藤候ハ韓主?ト書イタ上ニ×印ヲツケル。
『御次ハ』
御次ハ朴斉純外務大臣デアル、絶対反対デハナイカラ賛成ノ部ニ入レラレテ○印。其後ガ閔泳綺度支部大臣デ反対ノ×印。爾余ハ種々条件ヤ文句ガアッタガ結局全部賛成デ○印デ、直ニ此旨ハ闕下ニ執奏セラレタ。各大臣中デハ李完用学部大臣ガ最モシッカリシタ理ノ通ッタ意見ヲ吐イテ並居ル大臣中一際男振リヲ上ゲ伊藤候ヲシテ感服セシメタ。其レハ兎ニ角、コウシテ皇帝ノ聖断ヲ暫ク待ッテ居ル間ニ突然韓参政大臣ガ声ヲ揚ゲテ哀号シダシ遂ニ別室ニ連レ出サレタ。此時伊藤候ハ他ヲ顧ミテ『余リ駄々ヲ捏ネル様ダッタラ殺ッテシマヘ』ト大キナ声デ囁イタ。然ルニ愈々御裁可ガ出テ調印ノ段トナッテモ参政大臣ハ依然トシテ姿ヲ見セナイ。ソコデ誰カガ之ヲ訝カルト伊藤候ハ呟ク様ニ『殺ッタダロウ』ト澄シテ居ル。列席ノ閣僚中ニハ日本語ヲ解スル者ガ2,3人居テ之ヲ聞クト忽チ其隣ヘ其隣ト此事ヲ囁キ伝ヘテ調印ハ難ナクバタバタト終ッテシマッタ』
西四辻の保護条約締結の場の記録は、日本側のこの問題についての白眉といえる史(資)料である。
⑤ 『大韓季年史』(鄭喬、韓国国史編纂委員会 『韓国史料叢書』第5所収)
「17日早朝、駐屯五江(漢江、銅雀津、麻浦、西江、楊花津ー原註)の日本兵、みな京城に入る。騎兵七、八百名、砲兵四、五千名、歩兵二、三万名、縦横に四処(方)に馳走す。我国の人民、寸歩も自由たるを得ず。宮城の内外は数匝(めぐり)を以て囲み、大小の官吏、出入りに戦慄す。(中略)
伊藤博文およびその随員、長谷川好道およびその部下、各武官多数、歩兵・騎兵・憲兵と巡査および顧問官・補佐員、連続して風雨の如く馳せて闕中に入り、各門を守り、漱玉軒の咫尺を重々に囲み立ち、銃刀森列、鉄桶の如し。内政府および宮中には日兵また排立して、その恐喝の気勢、以て形言し難し。
博文、該件(条約原案)の否決を聞き、更に会議するを請う。主?以て不可と為す。説往、説来するも終に聴かず。博文、宮内大臣李載克を招きて、陛見を請う。たまたま帝、咽頭を患らい、これを謝却す。博文、天陛の咫尺において奏して謁見を請う。帝、これを拒んで曰く、必ずしも(会)見を要せず。出で去りて政府諸大臣と協議せよ。
博文、退きて諸大臣に語りて曰く、すでに協議の下諭あり、さらに議開をなせ、と。政府の主事を招き、さらに該条を書す。主?開議することを肯んぜず。博文叱して曰く、この如きの参政何れの処に用いん。速やかに退去をなせ、と。主?惶悚して対して曰く、我、参政に非ざるのみ、と。即ち退出して御前に入らんと欲す。日本人塩川一太郎等、数三人、その後ろに随う。
主?、顧みてこれを見、また回身す。日本武官数人は、主?を携え夾室に入る。日本兵および曹長(なほ我国の下士なりー原註)、士官等、左右より把守す」(原文は漢文)
鄭喬のこの記述がいかに重要なものであるかは、日本側の諸史(資)料と比較しても看取できよう。
⑦ 『朝鮮独立運動の血史』(朴殷植)
「伊藤は11月)17日には、日本の憲兵、巡査に命じて、わが各大臣の参内を強制させ、御前会議を開かせた。伊藤は、公使林権助、軍司令官長谷川好道らとともに兵を率いて王宮に入り、森厳な銃砲、刀剣の包囲のいなかで諸大臣と協議したが、参政大臣韓主?が『身を賭して絶対拒否する』と誓うと、伊藤は憲兵に命じ、韓主?を別室に連行、拘置した」
blog.goo.ne.jp/yshide2004/e/a9e571ef4d93b282bd0ed635eecb3657
日韓関係においても無関係ではないが、特に、日朝国交正常化のために避けて通れない問題の一つが、この「韓国併合条約」無効論の問題であるという。過去、日朝交渉の進展を阻んだ問題が、この問題であったという。1910年に、日本が大韓帝国(韓国)と締結した「韓国併合条約」が不法であり、無効であるとすると、日本の植民地支配の合法性は否定される。日本の植民地支配の合法性が否定されると、日本は過去の清算を加害者の被害者にたいする「賠償」として対応しなければならなず、それは、単なる歴史認識の問題ではすまされない問題となる。
また、それは、初代韓国統監伊藤博文を中国のハルビン駅で暗殺した安重根の石碑設置の動きに絡んで、日韓が反発しあった安重根の評価をめぐる議論などとも無関係ではない。
その「韓国併合条約」無効論の論拠となるのが、下記ような、「第二次日韓協約」(乙巳条約・乙巳五条約)強制調印の事実である。日本の植民地支配は、この保護条約である「第二次日韓協約」強制が起点となり、「韓国併合条約」締結に至った結果であるが故に、不法であり、無効であるというのである。
調印強制の事実として、下記のような武力的威嚇・脅迫的言辞・不法行為の内容があげられている。「日韓協約と韓国併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)からの抜粋である。
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Ⅰ 研究の現状と問題点
2 脅迫による協約締結
「韓国併合条約」など、日本が大韓帝国と結んだとする諸条約が、その当初から無効とする論拠の第1は、植民地化の起点となった保護条約である「第2次日韓協約」(韓国・北朝鮮では乙巳条約、乙巳5条約という)の締結は、日本の脅迫により強制されたものであるから無効であり、したがってこの協約を前提として締結された「韓国併合条約」もまた無効である、という点である。
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交渉の経過については本書収録論文以外にも多くの論文があるので省略し、ここでは協約の無効を証拠づける武力的威嚇、脅迫的言辞、不法行為を列挙するにとどめよう。
〈武力的威嚇〉
① ソウル南山倭城台一帯に軍隊を配置し、17,18両日は王城前、鐘路付近で歩兵一大隊、砲兵中隊、騎兵連隊の演習を行い威圧した。
② 17日夜、伊藤は参内し、長谷川韓国駐箚軍司令官、佐藤憲兵隊長を帯同し、万一の場合ただちに陸軍官憲に命令を発しうる態勢をとった。『大韓季年史』によれば「長谷川好道及其部下各武官多数、歩兵、騎兵、憲兵与巡査及顧問官、輔佐員連続如風雨而馳入闕中、把守各門・漱玉軒咫、尺重重囲立、銃刀森列如鉄桶、内政府及宮中、日兵亦排立、其恐喝気勢、難以形言」という。要するに王宮(慶雲宮、のち徳寿宮と改称)内は日本兵に制圧され、その中で最後の交渉が行われたのである。
③ 17日午前11時、林公使は韓国各大臣を公使館に召集して予備会商開いた後、「君臣間最後ノ議ヲ決スル」ため御前会議の開催を要求し、午後3時ごろ閣僚に同道して参内した。その際、護衛と称して逃亡を防止するため憲兵に「途中逃げ出さぬように監視」させた。事実上の拉致、連行である。
〈脅迫的言辞〉
④ 15日午後3時、皇帝に内謁見した伊藤は、恩着せがましく「韓国ハ如何ニシテ今日ニ生存スルコトヲ得タルヤ、将又韓国ノ独立ハ何人ノ賜ナルヤ」と述べ、皇帝の対日批判を封じた後、本題の「貴国ニ於ケル対外関係所謂外交ヲ貴国政府ノ委任ヲ受ケ、我政府自ラ代ッテ之ヲ行フ」ことを申し入れた。これに対し回答を留保する皇帝に向かい、伊藤は「本案ハ……断シテ動カス能ハサル帝国政府ノ確定議ナレハ、今日ノ要ハ唯タ陛下ノ御決心如何ニ存ス。之ヲ御承諾アルトモ、又或ハ御拒ミアルトモ御勝手タリト雖モ、若シ御拒ミ相成ランカ、帝国政府ハ巳ニ決心スル所アリ。其結果ハ果シテ那辺ニ達スルヘキカ、蓋シ貴国ノ地位ハ此条約ヲ締結スルヨリ以上ノ困難ナル境遇ニシ、一層不利ナル結果ヲ覚悟セラレサルヘカラス」と暴言を吐き、威嚇した。
⑤ 同席上、逡巡する皇帝が「一般人民ノ意向ヲモ察スルノ要アリ」と述べたのをとらえ、伊藤は、その言は「奇怪千万」とし、専制君主国である韓国の皇帝が、「人民意向云々トアルモ、定メテ是レ人民ニ煽動シ、日本ノ提案ニ反抗ヲ試ミントノ御思召ト推セラル。是レ容易ナラサル責任ヲ陛下自ラ執ラセラルルニ至ラン」と威嚇した。
⑥ 17日夜、韓国閣僚との折衝の席上、「断然不同意」、「本大臣其衝ニ当リ妥協ヲ遂クルコトハ敢テセサル」と拒否姿勢が明確な朴斉純外相の言葉尻をとらえた伊藤は、巧妙に誘導し「反対ト見做スヲ得ス」と一方的に判定した。他の4人の大臣のあいまいな発言もすべて伊藤により賛成とみなされた。歪曲である。とくに協約書署名者である朴斉純外相が反対者であることを認めなかった。
⑦ 同席を終始主導した伊藤は、韓主・参政、閔泳綺度相の2人の反対のほかは、6人の大臣が賛成と判断し、「採決ノ常規トシテ多数決」による閣議決定として、ただちに韓参政に皇帝の裁可をうるよう促し、拒否するならば「子ハ我天皇陛下ノ使命ヲ奉シテ此任ニ膺ル。諸君ニ愚弄セラレテ黙スルモノニアラス」と恫喝した。しかし、あくまで反対の韓参政は、「進退ヲ決シ、謹ミテ大罪ヲ待ツノ外ナカルヘシ」と涕泣しながら辞意を漏らし、やがて退室した。韓参政の辞任を恐れた伊藤は「余リ駄々ヲ捏ネル様ダッタラ殺ッテシマエ、ト大キナ声デ囁イタ」という。肉体的・精神的拘束を加えたうえでの威嚇である。
〈不法行為〉
⑧ 17日午後8時、あらかじめ林公使と打ち合わせた計画に従って、参内した伊藤は、皇帝に謁見を申し入れ、病気と称して謁見を拒否した皇帝から、「協約案ニ至テハ朕カ政府大臣ヲシテ商議妥協ヲ遂ケシメン」との勅諚を引き出し、閣僚との交渉を開始した。これは韓国閣議の型式をとったので、閣議に外国使臣である伊藤、林らが出席、介入したことは不法である。もともと日本政府の正式代表ではない伊藤の外国交渉への直接参加も違法である。
⑨ 協約書への韓国側署名者は「外部大臣朴斉純」、「外部大臣之章」と刻まれた邸璽(職員)であるが、その邸璽は公使館員らによりもたらされた。23日付け『チャイナ・ガゼット』によれば、「遂ニ憲兵隊ヲ外部大臣官邸ニ派シ、翌18日午前1時、外交官補沼野ハ其官印ヲ奪ヒ宮中ニ帰リ、紛擾ノ末、同1時半日本全権等ハ擅ニ之ヲ取極書ニ押印シ」た、とのソウル発電報を掲載している。
『大韓季年史』もまた「使公使館通訳員前間恭作、外交官補佐員詔(ママ)野、往外部、称有勅命而求其印、須知分斯即与之、無数日兵環囲外部、防其漏失、日本公使館書記官国分象太郎、預待於漱玉軒門前、仍受其印、入会議席遂捺之、時18日(旧暦10月21日)上午一点鐘也」と述べ、日本公使館員による、邸璽入手の経緯が詳しく述べられている。前間恭作は2等通訳官、沼野安太郎は外交官補、国分象太郎は2等書記官である。
伊藤の復命書である「日韓新協約調印始末」では、「朴外相ハ其官印ヲ外部主任者ニ持来ルヘキ旨電話ヲ以テ命シ」たとしか記していないが、前述の2資料の記述は具体的であり、日本人が強奪するようにして邸璽を持って来た事実は否定できない。以上の諸事実は、いずれも韓国の代表者個人に対して加えられた脅迫的行為または強制である。それが条約無効の根拠となることを前述したが、当時もっとも権威ある概論書として流布した、東京帝国大学法科大学高橋作衛『平時国際法論』(1903年、日本大学)も述べている。
『主権者又ハ締結ノ全権ヲ有スル人ガ、強暴又ハ脅迫ヲ受ケ、為メニ条約ニ記名スルニ至リタルトキハ、該条約ハ有効ニアラス。斯ル場合ニ於テハ、国家ノ名ニ於テ、条約ヲ為ス個人ハ強迫ヲ受ケ、為メニ自由決定ノ能力ヲ失ヒタルモノナルヲ以テ、其条約ハ拘束力ヲ生スルモノニアラス』と。
blog.goo.ne.jp/yshide2004/e/7664c6f9a99d5420ac28d5292053d907
また、最終段は、安重根(安応七)が「伊藤博文の罪悪15箇条」を書いた後、引き続き旅順獄中で書いた所感である(原文は漢文)。いずれも、「安重根と伊藤博文」中野泰雄(恒文社)より抜粋したものであるが、これらを読むと、殺人罪による死刑の判決は、いかがなものか、と思う。
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第4章 裁判と審判
4、第1回公判・2月7日 人定訊問と求刑
・・・
真鍋判官は安重根に外国語教育についてたずねると、「私の一家は天主教を信仰しておりますので、信川で天主教の宣教師フランス人洪神父からフランス語を数ヶ月習いましたが、日本語、ロシア語、その他の外国語は知りません」と答えている。またシベリアでの3年間の生活に関し、安重根は何の目的で行ったのかと問われ、
その目的は、外国に出ている韓国同胞の教育をすることを計画し、また義兵として、本国を出て、韓国の国事について奔走していました。この考えは数年前からありましたが、切に必要を感じたのは日露戦争当時からで、今から5年前の日韓五箇条条約および3年前の七箇条条約が締結されてから、ますます奮励するようになり、国外に出たのです。
と述べている。
・・・
また判官の韓国の前途をどう考えるかという問に対して、
1904年、日露戦争に際し、日本天皇陛下の宣戦の詔勅によれば、日本は東洋の平和を維持し、韓国の独立を期するためにロシアと戦ったので、韓国人はみな感激して、日本人と同じに出陣して働いた者もありました。また韓国人は日本の勝利をまさしく自国が勝ったもののように喜び、これによって東洋の平和は維持せられ、韓国は独立できると喜んでいました。ところが伊藤公爵が統監として韓国にきて、五箇条条約を締結しました。それは前の宣言に反し、韓国に不利益となるので国民一般は不服でした。さらに1907年には七箇条条約が締結され、伊藤統監が兵力をもって、圧迫を加えて締結しましたので、国民一般は大いに憤慨し、日本と戦っても世界に発表したいと願いました。本来、韓国は武力によらず、文筆をもって成立してきた国でした。伊藤公爵は日本でも第一位の人ですが、韓国にやってきて二つの条約を締結したのは、日本の天皇陛下の聖旨ではないと思い、伊藤公爵は日本天皇陛下をあざむいているので、伊藤公爵を無きものにしなければと思い、七箇条条約成立当時から殺害することを決意し、ウラジオ附近で一身を捨てて韓国の独立を期しておりました。
・・・
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6、第3回公判・2月9日 私は義兵中将
・・・
安重根は、それまでの2日半にわたる裁判の経過は、判官の些細な審問に答えるばかりで、彼が世界に訴えようとした真実を、十分述べることができなかったので、ようやく自分の真意を述べつくそうと決心して陳述しはじめた。裁判は日本語で進行し、安重根の発言の記録は園木通訳による日本語訳しか残されていない。
今回の殺害について、その目的の大要は申しましたが、私は好き好んで伊藤公爵を殺害したのではありません。ただ私の大きな目的を発表する一手段として行ったものですから、社会の誤解を免れるために申し述べたいことがありますので、その大要を申します。
今回の殺害は私一個人のためにした事ではなく、東洋平和のためにしました。日露戦争について日本の天皇陛下の詔勅によれば、「東洋の平和」を維持し、「韓国の独立」を強固にするとありました。それで、日本の凱旋を韓国人は自国の凱旋のように喜んでいました。そこに伊藤公爵が統監としてきて、韓国上下の民をあざむき、五箇条条約を締結しました。これは日本天皇陛下の聖旨に反したものですから、韓国民はみな統監をうらむことになりました。つぎにまた七箇条条約が締結され、ますます不利益を受け、さらにあるべきでない皇帝の廃位まで行われましたので、みな伊藤公爵を仇敵と思っていたのです。
それで、わたしは3年間、各所で遊説し、また義兵の参謀中将として各地で戦いました。今回の殺害も韓国の独立戦争のために、わたしが義兵の参謀中将として韓国のためにしたことで、普通の刺客としてやったわけではありません。わたしは今、被告人ではなく、敵軍のために捕虜となっているのだと思っています。
安重根は「普通の刺客」ではなく、「義兵の参謀中将」として韓国人民のレジスタンスの義士としての自覚を持っており、さらに、伊藤博文を「仇敵」としていたのを、日韓親和を前提として、両国皇帝の「逆賊」として告発しようとし始めていた。
今日、韓国と日本の関係を見ると、日本人が韓国の官吏となり、韓国人が日本の官吏となっているので、両国人は互いに日本と韓国のために忠誠をつくさねばなりません。伊藤公爵は韓国統監として韓国の臣民であるべきものであるのに、皇帝を抑留して終に廃位しました。元来、社会でもっとも尊いのは皇帝ですから、皇帝を廃位することはできないはずであるのに、伊藤は皇帝を侵したのです。臣下としてあるまじき行為であり、この上もない不忠の者です。
そのため韓国では今も義兵が各地で起こって戦っています。日本の天皇の聖旨は「韓国の独立」を強固にし、「東洋の平和」を維持するということでありますが、伊藤公爵が統監として韓国にきてから、そのやり方すべて聖旨に反するので、日韓両国は今も戦っているのであります。そして、韓国の外務法部および通信機関などは、みな日本に引き渡され、これでは韓国の独立が強固になるはずがありません。伊藤は日本および韓国に対しての逆賊であります。ことに伊藤はさきに韓国人を教唆して閔妃を殺害させとこともあります。
これらのことはすべて新聞紙上で世間に公表されていることで申し上げました。わたしたちはかねて伊藤は日本のために功労があると聞いていましたが、また一方、日本天皇陛下に対しても逆賊であると聞いております。
これからその事実を申し述べます。
安重根がここまで発言したとき、真鍋判官は、審問を公開することは、「安寧秩序を害する恐れがある」との理由で、公開をやめ、傍聴人を退廷させてしまった。
安重根は、5日後に死刑の判決を受け、8日後に平石高等法院長とのやりとりの後に控訴を行わず、死刑が確定する。その日から3月15日まで自伝として『安応七歴史』を書くことに専心することになるが、「安応七歴史」の中で、2月7日、8日の審問については、訊問の延長として何も述べず、9日午後の意見を述べる機会を得て、「幾つかの目的を説明する際に、裁判官が大いに驚いて立ち上がり、即時、傍聴禁止とした」としている。法廷を退き、他の部屋に入れられた安重根は考えた。
私の言葉の中に刀剣があったのか、鉄砲があったのか、たとえれば、清風が一吹きして、塵埃がことごとく消え去ったようだ。
これはほかではなく、伊藤の罪名をあげて、日本孝明天皇弑殺をかたろうとした時、このように席を破った。
と書いている。韓国閔妃殺害、高宗皇帝廃位と、日本の天皇の詔勅に反する逆賊であり、さらに、孝明天皇を殺害したものとして、伊藤博文を告発しようとしていた。孝明天皇が慶応2年(1866)12月25日に、天然痘にかかって快癒に向かいまがら毒殺されたのは、幕府と朝廷との公武合体路線から開国倒幕へと転換する際に、天皇から遠ざけられていた岩倉具視の政界復帰をもたらしたもので、岩倉が主犯と思われ、長州藩の若輩であった伊藤の手の及ぶ事件ではなかった。しかし、明治維新、明治6年および14年の政変と、およそ7年ごとに行われた天皇の権威によって権力を握り、天皇の人格的意志を無視する岩倉の宮廷官僚的政治手法は、明治16年(1883)7月20日の岩倉の病死後は、長州藩閥によって支えられた伊藤によって受けつがれた。…
・・・
…判官の「目的」についての問に対して、
わたしは日本4千万、韓国2千万同胞のため、また日本天皇陛下および韓国皇帝陛下に忠義をつくすために今回の挙にでました。
と述べ、日本と韓国の両国民のために伊藤を殺害したことを明言し、さらに、「東洋平和」の目的について語った。
日韓両国人の間では、たがいに隔てなく同国人であるという観念で尽力しなければならないと思います。伊藤は韓国に統監としてきてから、韓国の人民を殺し、先帝を廃位し、現皇帝に対して部下のように圧制し、人民を蠅を殺すように殺しました。元来、生命を惜しむのは人情であります。しかし英雄は常に身命をなげうって国につくすよう教えられています。ところが伊藤はみだりに他国人を殺すのを英雄と心得、韓国の平和を乱し、十数万の人民を殺しました。私は日本天皇陛下の宣戦詔勅にあるように、東洋の平和を維持し、韓国の独立を強固にして、日韓清三国が同盟して平和をたたえ、8千万以上の国民が互いに相和して、徐々に開化の域に進み、ひいては欧州および世界各国と共に平和に力をつくせば、市民は益々安らかに暮らすことができ、宣戦の詔勅にそうことになります。
しかし、伊藤公爵がいては、東洋平和の維持はできない思ったので、今回の事件を行いました。
安重根は逆賊としての伊藤を処罰するばかりでなく、日本と韓国と清国とが東洋の平和の共同体をつくり、ヨーロッパおよび世界にその平和の輪をひろげる理想を信じていたのである。しかし、安重根は公開の裁判を継続するために、公平な裁判で主張しようとした「政治上の意見」を述べて、伊藤の害悪を明らかにすることを断念し、判官に「かかることは申し上げぬつもり」」と約束した。真鍋判官は公開の禁止を解くことを告げ、午後4時25分に閉廷し、翌日、10日午前9時の開廷を告げた。
伊藤博文を逆賊とする安重根の「政治上の意見」は10日で終わるはずの裁判の日程を狂わせることになったが、公開の法定で国際世論に訴えよとした安重根の意見は、ついに発表の機会を失ったのである。その無念の思いを、彼は『安応七歴史』の中に書きとめている。
真鍋判事が法律を知らないのは、これほどなのか。天皇の詔命が重んじられないのは、これほどなのか。伊藤公が立てた官制は、このようなものか。なぜ、このようになったのか。大いに秋風に酔って、こうなったのか。私が今日、遭っているのは真実であるか、夢であるか。私は堂々たる大韓民国の国民であるのに、なぜ日本の監獄にかこわれ、日本の法律を受けねばならないのか。これはなぜか。私がいつ日本に帰化したというのか。判事は日本人、検察も日本人、弁護士も日本人、通訳官も日本人、傍聴人も日本人、これでは唖者の演説会を聾者が傍聴しているのと同じだ。まことに、これは夢の世界だ。もし夢なら、速く醒め、こころよく覚め、速く醒め、こころよく覚めたい。この境涯を説明しても役にたつものではなく、公談しても益がない。
安重根は、自分の受ける裁判をこのように理解し、真鍋判官の要求に対して笑って答え、「裁判官は思いのままにやってください、私は他にいうことはない」と述べた。
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第3章 伊藤博文殺害者の正体
2 本名はアン・ジュングン(安重根)
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天壌民ヲ生ジ、四海ノ内ミナ兄弟トナス。各々自由ヲ守リ、生ヲ好ミ死ヲ厭ウハ人ミナノ常情ナリ。今日、世人ヒトシク文明時代ヲ称ス。然レドモ我ヒトリ長嘆ス。然ラズ、東西両洋、賢愚男女老少ニ論ナク、各々天賦ノ性ヲ守リ、道徳ヲ崇尚シ、トモニ競争ノ心ナク、土ニ安ンジ業ヲ楽シミ、トモニ泰平ヲ享受ス。コレヲ文明トスベシ。現今ノ時代ハ然ラズ。イワユル上等社会、高等人物ノ論ズルハ競争ノ説ニシテ、究メルハ殺人機械ナリ。故ニ東西6大州、砲煙弾雨、絶エザル日ナシ。現今ノ東洋ノ大勢、コレヲ言ワバ スナワチ惨状モットモハナハダシ。真ニ記シガタシ。イワユル伊藤博文、未ダ天下ノ大勢ヲ深量スルヲ解セズ、残酷ノ政策ヲ濫用ス。東洋全般、将来魚肉ノ場トナルヲ免ガレザラントス。アア、天下ノ大勢ヲ憂慮スレバ、有志ノ青年ヲ、アニ手ヲツカネテ策ナク、坐シテ以ッテ死ヲ待ツベキヤ。故ニ、コノ漢(私)コレヲ思イテヤマズ、哈爾賓(ハルビン)ニオイテ万人ノ公眼ノ前ニ銃ヲ発シ、声ヲアゲテ伊藤老賊ノ罪悪ヲ討チテ、東洋有志ノ青年ノ精神ヲ警醒セント欲スルナリ。
として、「1909年11月6日午後2時30分提出」と書いた。「伊藤博文罪悪15箇条」と「韓国人 安応七所懐」とは、伊藤博文を代表とする大日本帝国の政策が韓国にどのような害悪を与えているか告発するとともに、世界人類がみな兄弟であるべきだという世界市民の思想に立ち、帝国主義時代に日本が「殺人機械」によって東洋全般を侵略しようとしているのを阻止するために、韓国人ばかりでなく、日本、中国もふくめた広い東洋の有志の青年への呼びかけとなっている。
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しかしながら、各地の韓国人による義兵闘争は、その後も、次々に日本軍によって潰され、追い詰められた安重根は、最後の手段として、伊藤博文暗殺を計画することなったという。
裁判における彼の「…韓国の義兵であって今敵軍の捕虜となってきている…」という主張や、「…、私が3年前から国事のために考えていたことを実行したのですが、私は義兵の参謀中将として独立戦争の最中に伊藤さんを殺したのです。個人の犯罪ではなく、あくまで参謀中将という資格で計画したのですから、そもそもこの法院で、殺人罪の被告人として取調を受けるのは間違っているのです。…」という主張は、そこからくるといえる。「万国公法」で裁けというわけである。
安重根ほか3名の裁判は、旅順の関東都督府地方法院で、明治43年(1910)2月7日に開始され、2月14日には判決が言い渡されている。判官・真鍋十蔵、検察官・溝淵孝雄、国選弁護人・水野吉太郎および鎌田正治、通訳・園木末吉であった。ウラジオストーク居住の韓国人たちが、安重根を気づかい依頼した、ロシア人弁護士ミハイロフやイギリ人弁護士ダグラスの弁護届けが、判官・真鍋十蔵に提出されていたが、最終的にそれは却下され、通訳も含めてすべて日本人であった。
そして、日韓併合の対韓政策上、「無期徒刑」になってはうまくないと考えた韓国統監府倉知鉄吉政務局長の
「検察官ハソノ後訊問ヲ継続シタレドノ別ニ新事実ヲ発見セズ、境警視ノ調ベモサシタル結果ヲ得ルニ至ラズ、サレバ今後、浦塩方面ニナンラカ有力ナル事実ヲ発見セザルカギリ、当地ニオケル取調ベハ実際著シキ効果ヲミルコトナカルベシト思考サエラル。
シタガッテ、今両3日ヲ経タル後ハ、アルイハ今後ノ方針ニツキ、当地ニオケル関係者協議ヲ遂グルヲ要スル時期ニ達スルコトアルベク、ヨッテ左ノ点ニ関して何分ノ電訓ヲ請ウ」(「安重根と伊藤博文」中野泰雄〔恒文社〕)
に対して、小村寿太郎外相が、
「政府ニオイテハ安重根ノ犯行ハ極メテ重大ナルヲ以テ、懲悪ノ精神ニヨリ極刑ニ処セラルルヲ相当ナリト思考ス」(同書)
との返電を送ったため、それまであった「無期徒刑」の考え方は、関東都督府地方法院からは消えたという。この事件を政治事件とはせず、あくまでも安重根個人の犯罪として、当時の状況や安の思想、暗殺の動機などは不問に付すことになったのである。安重根も、それまで同情的な側面をみせていた検察官溝淵孝雄の態度の変化に気づき、何らかの力が働いたと感じて次のように書いている。
「ある日、検察官がまた審問にやってきたが、その言葉や態度が前日とはまったく違い、自分の考えを圧制しようとし、また発言を抑えようとし、侮蔑する様子があらわれた。私がひそかに思うに、検察官の思想がこのようにたちまち変わったのは、本心ではあるまい。外から風が大きく吹いて、道心がおとろえれば、人心が危うい。という言葉があるが、まことに誤りなく、このことを伝える文字である」(同書)
関東都督府地方法院には、安重根の求める国際裁判を指示する意見もあったというのに、当時の日本政府の力が作用したようで残念である。義兵とはいっても、個人的に要人を暗殺するという行為には、問題があるであろうが、伊藤博文が中心となって進めたともいえる韓国の保護国化や日韓併合に至る諸政策、初代韓国統監として実行したこと、また、当時の韓国人がおかれた状況などを不問に付したまま、彼を凶漢と呼び、犯罪者と断じるのでは、日韓の溝は埋まらないと思う。
下記は「わが心の安重根 千葉十七・合掌の生涯」斎藤泰彦著(五月書房)から安の最終陳述の部分を抜粋したものである。
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雨の日の処刑
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判官真鍋は両弁護人の弁論のあと、各被告に最終の陳述を求めた。
劉東夏と曹道先はともに、本事件とは関係のないことを述べた。また禹徳淳は「伊藤は日本と韓国の間に障壁をつくる人なので殺そうと思い、自分の意志でこの事件に加担することになったのだから、別に異論はない。ただ、今後は日本の天皇陛下が日本人と韓国人とを均等に取り扱い、韓国の保護を確実にしてほしいと思います」と述べた。
最後に安が立った。長文にわたる安の陳述記録をそのまましるしてみると──。
「私が、検察官の論告を聞いて思うには、検察官は私を誤解しているということです。例えば、検察官は、ハルピンで今年5歳になる私の子どもに私の写真を見せて”父である”との確認をしてもらったと申しますが、私が国を出たとき子供はまだ2歳で、その後は会っていませんから私の顔を知っているはずはないのです。
そもそも、今回の伊藤公殺害は私人としてやったものではなく、韓日関係から致したものなのです。しかし、事件の審理については、判官はじめ弁護人および通訳までも日本人のみによって取り扱われております。韓国から弁護人もきているので、弁護の機会を与えてくださるのが至当と思うのです。また弁論なども大要のみを通訳してきかせられるので、私は不満でありますし、他から見ても片寄っているとの非難を受けるにちがいありません。
検察官や弁護人の言い分を聞いていると、みな伊藤公の統監としての施政方針は完全無欠であり、私が誤解しているとのことですが、それは不当であります。私は誤解しているのではなく、かえってよく知りぬいていると思いますから、公爵の統監としての施政方針についてその大要を申し述べてみます。
明治38年(1905)における五ヵ条の保護条約のことでありますが、あの条約は韓国皇帝はじめ国民一般は保護を希望したのではありません。しかし、伊藤公は韓国皇帝および上下臣民の希望で締結すると言って、一進会(日本への合邦運動を推進した韓国の親日団体)をそそのかして運動させ、皇帝の玉璽や総理大臣の副署がないのに、各大臣を金で瞞着して締結させてしまったのです。だから、伊藤公のこの政策については当時、志ある者はみな大いに憤慨し、紳士たちも皇帝に上奏し伊藤公にも献策しました。
日露戦争についての日本天皇陛下の宣戦詔勅には、東洋の平和を維持し韓国の独立を強固にするということがありましたから、韓国人民は信頼して日本と共に東洋に立つことを希望していました。が、伊藤公の政策はそれと反対でしたので、各所に義兵が起こりました。第1は、崔益鉉(チェイクヒョン)が献策して宋秉畯(ソンビョンヂェン)のために捕えられ、対馬に拘禁中に死にました。それで起きたのが最初の義兵であります。
その後、献策しても方針が変えられませんので、当時(明治40年=1907)ヘーグの平和会議に、皇帝が密使として李相・を派遣し訴えたのは、五ヶ条の条約は伊藤公が武力をもって強制したものであるから万国公法にしたがって処分してほしいということだったのです。しかし、当時、同会議では物議が起きていたのでものになりませんでした。それから伊藤公は、夜中に刀を抜いて皇帝に迫り7ヶ条の条約(第3次日韓協約)を締結し、皇帝を退位させて日本に謝罪使を派遣することにまでなりました。
そんな状態で、京城(ソウル)付近の韓国民は上も下も憤慨し、なかには切腹する者もありました。人民も兵も素手や兵器をもって日本兵と戦い、京城の変が起こりました。
その後、十数万の義兵が各地に起こったので、太上皇帝が詔勅を下して、国の危急存亡に際して袖手傍観するのは国民たるもののとる道ではないということがありましたので、韓国民はいよいよ憤慨して今日まで日本兵と戦い、今になっても治まりません。これで十万以上の韓国民が殺されました。これらの者がみな、国事に尽くして倒れたのなら本懐でありましょうが、いずれも伊藤公のために虐殺され、ひどいのは頭から縄を通して社会の見せしめにするからといって、残虐無道のことをされました。そのため、義兵の将校も少なからず戦死しました。伊藤公のこのような政策で。1人殺せば10人、10人殺せば百人義兵が起こるという有様ですから、施政方針を改めなければ韓国の保護はできぬと同時に、日韓両国の戦争はとこしえに絶えぬと思います。
伊藤公その人は、英雄ではなく、奸雄で奸智にたけているから、その奸智でもって、韓国の開明は日に月に進歩をしていると新聞に掲載させ、また日本天皇陛下や政府に対しても、韓国は円満に治まっており、日に月に進歩していると欺いています。そのため韓国同胞はみな、その罪を憎み伊藤公を殺害しようという心を起こしていました。人間はだれでも生の楽しみを願い、死を好むものではありません。まして韓国民は十数年来、塗炭の苦しみに泣いてきましたから、平和を希望することは日本国民よりも一層深いものがあるのです。
さらに私はこれまで、日本の軍人や商人や道徳家ら、いろいろな階級の人々とも会って話をしたことがありますので、次にその話を申し上げます。
軍人との話というのは、韓国に守備隊としてきていた人と会ったときのことです。その軍人に、このように海外にきておられるが国には父母妻子もおられ、夢の間にも家族のことは忘れられず苦労の多いことでしょう、と私が慰めましたところ、その人は、国には妻子もいるが国家の命令で派遣されているので、私情としては堪えられぬけれども致し方ないと泣いて話しました。それで私は、もし東洋が平和で日韓のことが無事でさえあれば守備にこられる必要もあるまい、と申しました。するとその人は、そのとおり個人としては戦いを好まぬけれど、軍人であるゆえに必要があれば戦わねばならないのだ、と申しました。それで私は、守備隊としてきておられる以上、帰国することは容易にできますまいと話したら、その人は、日本には奸臣がおって平和を乱すので自分らは心にもなく遠いこんなところにまできている、伊藤公のような人は自分一人ではきないが何とかして殺してやりたい思いだ、と泣きながら申していました。
それから農夫との話もありました。その人は、韓国は農業に適し収穫も多いということでやってきたが、いたるところ暴徒が起こって安心して仕事もできない。かといって、国へ帰ろうにも、昔の日本はよかったが今では戦争のため財源を得ることに汲々として、農民に課税を多くするので農業もできない。このようなわけで、自分らはまったく身の置きどころがない、といって嘆いていました。
商人との話でも、韓国は日本の製品の需要が多いと聞いてきたが、前の農民の話と同じように、いたるところ暴徒があって交通は途絶され生活さえできない。伊藤公をなきものにしなければ商業もできない。自分一人の力でできることなら、殺してやりたいくらいだ。とにかく、平和になるのを待つよりほかない、と言っておりました。
道徳家の話というのは、キリスト教の伝道師のことですが、私はその人に対し、これだけ何の罪もない人を虐殺するような日本人が伝道なんてできますか、と質問してみたのです。すると彼は、道徳には彼我の区別はない、虐殺するような人はまことに憐れむべきもので、天帝の力によって改善させるよりほかないから、このような者どもはむしろ憐れんでくれと申しておりました。
私が伊藤公を殺したのは、公爵がおれば東洋の平和を乱し、日本と韓国との間を疎隔するのみであるから、韓国の義兵中将の資格をもってやむを得ず殺したのです。もともと私は、日韓両国がますます親密になって平和に治まり、やがて五大州にもその範が示されるよう念願してきました。私は決して誤解によって伊藤公を殺したのではありません。いま言ったような私の目的を達成させるために、あえてやったのであります。それゆえ今、伊藤公の施政方針が誤っていたことを天皇陛下に奏上していただけるなら、天皇も必ず私のことをよく理解し喜んでくださるだろうと思っております。今後は陛下の聖旨にしたがい、韓国に対する施政方針を改善されたならば、日韓間の平和はまちがいなく万世にわたって維持されるであろう、と期待しておるのです。
弁護人によれば、光武3年(明治32年=1899)に締結された韓清通商条約によって、韓国民は清国内において治外法権を有し、本件は韓国刑法大全に基づいて治罪すべきものであるけれども、その韓国刑法には(外国における韓国人の犯罪について)罰すべき規定がないというのですが、それは不当な愚論というべきものだと思います。今日の人間はすべて法によって生活しているのに、現に人を殺した人間が罰せられずに生存するという道理はありません。それならば、私はどのような法によって処罰されねばならないかという問題ですが、それは韓国の義兵であって今敵軍の捕虜となってきているのですから、すべては万国公法によって処断されるべきものである、と思うのであります」
安の陳述は1時間を超えた。
その論旨は一貫して、この十数年、つまりあの日清開戦から日露戦後の今日まで、わが日本がひたすら歩みつづけてきた”韓国侵入への道”を心底から剔抉するようなものだった。検察官がどんなに言いつくろうとも、公判そのものがすべて日本人のみによって取り仕切られている状況では、伊藤公らがタテマエとして掲げてきた、”仁政”どころか”韓国の保護”にもならなかったのである。それを検証するように述べつづける安の言葉は、まるで暗黒の彼方からひた押しに迫ってくる海の満ち潮がやがて海辺に棄てられたあらゆる残骸を呑み込んでしまうような不気味な光景にも見えた。…
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このことからも分かるように、安重根に対する日韓政府の評価は、現在も正反対である。この日韓政府の評価の溝を埋める努力なくして、共通の歴史認識は生まれないし、関係改善も難しい。そこで、再び安重根の裁判における公判記録から、彼の主張を抜粋するが、下記のような、日本人の存在にも考えさせられるものがある。
伊藤博文殺害後に、獄中の安重根の看守を命ぜられた関東都督府陸軍憲兵上等兵「千葉十七」(ちばとうしち)は、当初、伊藤公を殺害した安重根に激しい怒りを感じていたという。しかしながら、取り調べや公判が進むにつれて、彼の主張には正しい部分もあると、自分でも思い当たることがあり、千葉は考えさせらていく。また、彼の行為が彼の主張通り、個人的な恨みによるものではないことが明らかなうえに、獄中の安の態度には、日本の元勲を殺した男とは思えない、素直で礼儀正しい不思議な雰囲気があったという。そして、いつしか「この男はただ者ではない」と思うようになり、しだいに心を通わせていく。
彼の処刑が近づくと、千葉は「この人は、生き永らえたら、必ずや韓国を背負ってたつ人物なのであろうに──」と畏敬の念さえ抱き、「日本人はこの人にもっともっと学ばなければならない」と思いつめて、「安さん、日本があなたの国の独立をふみにじるようになったことは、何とも申しわけありません。日本人の一人として、心からお詫びしたい気持ちです」と頭を下げたというのである。
また、下記抜粋文にあるように、検察官溝淵孝雄も、安重根の主張を聞いた当初は、日韓併合を進めようとする日本政府の対韓外交政策を知らず、安重根を「東洋の義士」と認め、「死刑はあるまい」と言っている。
にもかかわらず、当時の外相小村寿太郎から、「日本政府においては、安重根の犯行はきわめて重大なるをもって、懲悪の精神により極刑に処せらるることを相当なりと思考す」との指示があり、安重根の裁判は、その指示に基づいて、日韓併合の外交政策上「極刑」しかない、ということで進められていくことになったのである。
日本政府は、韓国民では英雄とされている安重根を凶漢と呼び、犯罪者であるという。しかし、当時、彼の裁判を担当した判官真鍋十蔵に、伊藤公および随行員殺傷について問われて安重根は
「それは、私が3年前から国事のために考えていたことを実行したのですが、私は義兵の参謀中将として独立戦争の最中に伊藤さんを殺したのです。個人の犯罪ではなく、あくまで参謀中将という資格で計画したのですから、そもそもこの法院で、殺人罪の被告人として取調を受けるのは間違っているのです」
と答えている。判官真鍋十蔵はこの主張に耳を貸さず、伊藤殺害の事実だけを問いつめていったという。伊藤殺害の背景には踏み込まなかったのである。したがって、日韓の主張は、彼の裁判のスタート時点からかみ合っていないということであろう。安重根を裁くに当たって、殺害の背景が無視されてよいのかどうか、義兵の参謀中将としての彼の立場を考慮しなくてよいのかどうか、考えさせられる。
下記は、「わが心の安重根 千葉十七・合掌の生涯」斎藤泰彦著(五月書房)から、安重根の指摘した「伊藤博文の罪状15ヶ条」の部分を抜粋した。
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二人の出会い
・・・
10月30日、安重根に対する初の取り調べ(第1回尋問)が、検察官溝淵孝雄によってハルピン総領事館で行われた。書記は岸田愛文、通訳は嘱託の園木末喜であった。残されている公判記録は、すべて漢字とカタ仮名による翻訳日本語なので、安重根の答えた韓国語の内容をそのまま伝えるものではない。この安重根の正確な経歴と真意とは、のちに獄中で書かれた自伝の「安応七歴史」をも参照しなければならないのだが、ここではまず公判記録に沿って尋問のようすをのぞいてみる。初めに、冒頭部分をしるしてみると、
問 氏名年齢身分職業住所本籍出生地ハ如何
答 氏名ハ安応七
年齢ハ31歳
身分ハー
住所ハ韓国平安道平壌城外
本籍地ハ同所
出生地ハ同所
問 其方ハ韓国臣民カ
答 左様デアリマス
問 韓国ノ兵籍ニ就イテ居ルカ
答 兵籍ニハ就イテ居リマセヌ
問 其方ノ宗教信仰ハ如何
答 私ハ天主教信仰者デス
問 其方ハ父母妻子アリヤ
答 アリマセヌ
このように尋問の最初から、同族や同胞へ罪が波及するのを避け、一人でその責任を背負っていこうという安重根の決意が示されている。しかし、伊藤公をなぜ敵視したのか、という問に対しては毅然と答えた。記録や安の述懐によれば、その原因つまり殺害理由はとても多いので、それらを「伊藤博文の罪状15ヶ条」として列挙させてもらいたい、として次のように述べたという
第1、10年ほど前、伊藤さんの指揮で、韓国王妃を殺害しました。
(注)これは明治28年(1895)10月の閔妃殺害事件をさす
※この件に関しては、「閔妃暗殺の首謀者はソウル駐在日本公使(三浦梧楼)
?」(195)の項目参照
第2、5年前に伊藤さんは兵力をもって、韓国にとっては非常に不利益な、5ヶ条の
条約を締結させました。
(注)これは明治38年(1905)11月17日、伊藤全権大使のもとに調印された
第2次日韓協約をさす。日本は韓国の外交権を全面委譲させ、ソウルに韓国
統監府を置いて保護政治を強化していった。韓国併合への実質的な第一歩と
なった条約
※条約関係は「日韓議定書と日韓協約(第1次~第3次)全条文」(180)の項
目参照
第3、3年前、伊藤さんが締結した12ヶ条の条約は、韓国の軍隊にとって、非常に
不利益なものとなりました。
(注)これは明治40年(1907)7月24日、伊藤初代韓国統監のもとに調印され
た第3次日韓協約をさす。全文7ヶ条であるが、安重根は第2次協約の5ヶ条と
合わせ12ヶ条としている。この第3次協約で、韓国の内政は統監指導下に完
全掌握され、翌8月には韓国軍も解散させられたことをさす。
※この韓国軍解散の件も含め、安重根があげた15ヵ条の問題点の大部分は
(177)~(204)の項目で、すでに取り上げている。
第4、伊藤さんは、強要して韓国皇帝を退位させました。
(注)これは明治39年(1906)6月、ハーグ密使事件が発覚し、韓国皇帝高宗
が伊藤統監によって退位させられたことをさす。このあと第3次日韓協約が結
ばれた。
第5、韓国の軍隊は、伊藤さんによって解散させられました。
(注)前述の「第3」と同じ。
第6、条約締結に韓国民が憤り、義兵が起こると、伊藤さんはこれに絡んで韓国
の良民を多数殺させました。
第7、韓国の政治、その他の権利を奪いました。
第8、韓国の学校で用いた良好な教科書を、伊藤さんの指揮で焼却させました。
第9、韓国人民に、新聞の購読を禁止しました。
第10、充当させる財政もないのに、性質のよくない韓国の官吏に金を与え、韓国
民には何も知らせず、しまいには第一銀行券を発行させています。
第11、韓国民に負担させる国債2300万円を募り、官吏が勝手に分配し、また韓
国民の土地を奪いました。これは韓国民にとって、非常に不利益な事です。
第12、伊藤さんは、東洋の平和を攪乱しました。すなわち日露戦争当時から「東
洋平和を維持するため」と言いながら、韓国皇帝を退位させるなど、当初の宣
言とはことごとく反対の結果を見るに至り、韓国人2千万はみな憤慨しておりま
す。
第13、韓国が望まないのに、伊藤さんは韓国保護に名を借り、韓国政府の一部
の者と意志を通じ、韓国に不利益な施政をいたしております。
(注)第6からこの第13までは、韓国統監としての伊藤の「内政改革」を非難し
たものである。
第14、伊藤さんは、42年前に、現日本皇帝の御父君に当たられる御方を害しまし
た。そのことはみな、韓国民が知っております。
(注)これは慶応2年(1866)12月の孝明天皇死没に、弑殺のうわさが流れた
ことにふれたもの。が、当時の伊藤はまだ宮中に出入りできる身分ではなく、ま
た郷里で病臥中だったので、この項目だけは安重根の間違いであるとされてい
る。
第15、伊藤さんは、韓国民が憤慨しているにもかかわらず、日本皇帝や世界各国
に対して「韓国は無事なり」と言って、欺いております。
検察官溝淵孝雄は、この「伊藤の罪状15ヶ条」を聞き終わって驚いた。これは、取り調べの冒頭で答えた「人物」が語る内容ではないと内心舌をまいたのである。一つ一つが、溝淵にとっても手厳しい指摘であった。今日の現状を、的確にとらえているとも思った。
溝淵は、安の顔をじっと見つめ、「いま、陳述を聞けば、そなたは東洋の義士というべきであろう。義士が死刑の法を受けることはあるまい。心配しないでよい」と思わず言ってしまった。が、これに対し安は「私の死生について論じないでください。ただ、私の思っていることを、ただちに日本の天皇に上奏してください。すぐにでも伊藤さんのよからぬ政略を改め、東洋危急の大勢を救ってくださることを切望いたします」と答えた。
・・・
blog.goo.ne.jp/yshide2004/e/7348895c88ffdd0bd07bf6134942778c
y-history.net/appendix/wh1403-037_1.html
閔妃暗殺事件
1895年10月、朝鮮で実権を持っていた親露派の王妃閔妃を、宮中に乱入した日本公使らが殺害した事件。事件の背景には三国干渉によって親露派と結ぶ閔氏が台頭したことに対して、日本が反閔妃の大院君を利用して巻き返しを図ろうとしたことがあげられる。しかし王妃などに対する直接的な凶行は国際的な批判も受け、また朝鮮民衆の反日感情も強まったことから日本は朝鮮での発言権を弱め、かえって親露派が勢いづいた。
そのような情勢のもと、1895年10月8日未明、日本公使三浦梧楼は公使館員、日本軍の京城守備隊などに日本人浪人を加えて朝鮮王朝の王宮に侵入させ、閔妃らを殺害し、死体を焼き払った。そのうえで大院君を王宮に入れ、高宗に対し、親露派を一掃し日本の協力の下で政治改革を進めることを強要した。この一連の王妃殺害事件と政権の交代を乙未事変(乙未は当年の干支)ともいう。
『閔妃暗殺』
この事件は一国の公使が在任国の宮廷でその王族を殺害するという前例のない出来事であった。しかし当時日本では、事件は閔妃と大院君の内紛に三浦公使が巻き込まれたにすぎないという理解と、公使の行動も日本の国益を守る愛国心から出たものであるという同情が一般的で、国内から非難がわき起こることはなかった。また関係者の証言や記録もあえて真実は語らないという態度のものが多く、事件の実情は闇に包まれていた。そのなかで1988年に角田房子が『閔妃暗殺』を発表してベストセラーとなり、初めて日本でも広く知られるようになった。歴史書ではないが、両国の史料をよく調べた力作であるので、それにそって事件の詳細を見てみよう。三浦梧楼という人物
三浦梧楼は長州出身の軍人であったが、彼が韓国駐在の公使となったのは、前任の公使で同じ長州の井上馨の推薦によるもので、伊藤博文と山県有朋が決定した。井上は日清戦争後の駐韓公使として閔妃を何とか日本側に引きつけようと努力(例えば300万円の援助を約束するとか)を重ねたが、閔妃の親ロシア姿勢を変えることができず、最終的な手段として閔妃を除くことが必要と密かに考えるに至った。そこでその実行に適した人物として三浦が選ばれた。三浦はある〝決意〟をもって韓国に赴任した。三浦梧楼は戊辰戦争や西南戦争で活躍し、直情径行の人として知られて、士官学校校長や学習院院長を務めた人物である。閔妃殺害事件はさすがに対外的にも問題となったので、公使としての三浦梧楼の責任が問われ、事件後召還されて広島で裁判となった。しかし直接関与の証拠はないとして無罪となった。彼はその後も長州閥の旧軍人として優遇され、晩年には枢密院顧問となっている。彼の回顧録が公刊されていて、様々な自慢話が語られているが「朝鮮事件」の一節は、自分の判断で実行したと語るだけで詳細は言葉を濁しており、「我輩の行為は是か非か。ただ天が照臨ましますであろう。」と結んでいる。<三浦梧楼『観樹将軍回顧録』中公文庫 p.290>
暗殺決行
三浦の計画では、皇帝が親露派の閔妃に動かされて、日本軍人を顧問としている理由で解散させられることになった訓練隊が反乱を起こし、その混乱に乗じて閔妃を殺害、反閔妃の大物大院君を担ぎ出して親日派政府を樹立するというものであった。当初、1895年10月10日に決行と決めたが、訓練隊の解散が早まりそうになったため急遽、8日深夜に変更、三浦は公使館員堀口九万一や民間人の漢城新報社長安達謙蔵(後の政治家)、同社員の小早川秀雄らとはかり、実行要員として大陸浪人と言われるようなごろつき連中をあつめ、日本軍の馬屋原少佐にも連絡して態勢を整えた。大院君の決起という形をとるため浪人の岡本柳之助らがその幽閉先に向かい、寝所に押し入って強引に説得した。しかし大院君がすぐに腰を上げなかったため予定より時間をくっていまい、王宮に着いたのは明け方になってしまった。そのため、夜陰に乗じて閔妃を殺害するという計画は不可能となり、王宮に侵入しようとした日本軍と侵入者たちと王宮守備隊との銃撃戦となった。宮中に乱入した日本兵と抜刀した民間人は、閔妃をさがして駆けめぐり、女官などに手当たり次第に暴行を加えた。たまたま宮中にいたアメリカ人顧問やロシア人技師もそれを目撃した。この乱戦の中で閔妃は斬殺されたが、直接の下手人はわかっていない。後の裁判では日本の軍人だったという証言もあったが、他に数名の民間人が自分こそは下手人だと名乗るものがあり、結局は不明とされた。事件後宮中に入った三浦公使は閔妃を確認するとすぐに焼却を命じ、遺骨は宮中に埋められたとも、池に投げ込まれたとも伝えられている。<角田房子『閔妃暗殺』1988 新潮社刊 現在は新潮文庫>事件のその後
その時の伊藤博文内閣の外相陸奥宗光は病気療養中で、西園寺公望文相が外相臨時代理を務めていた。西園寺は未曾有の事件に不審を抱き、ただちに小村寿太郎政務局長を現地に派遣した。小村が10月17日に西園寺に出した調査報告は三浦公使が使嗾(そそのかす)したものと断じたので、同日、公使を召喚し、罷免した。国際的な批判を受けた日本は三浦梧楼らを裁判にかけたが、証拠不十分で無罪となった。朝鮮の金弘集内閣は日本の圧力を受け、事件の解明を行おうとしなかったために民衆の反日感情は強まり、1896年1月、王妃である閔妃の殺害に憤激して「国母復讐」を掲げ、最初の反日武装闘争である義兵闘争が起きる。日本兵を含む政府軍が義兵鎮圧に向かい、首都の防備が手薄になったすきに、親露派はクーデタを起こし、高宗をひそかにロシア公使館に移して金弘集政権を倒して親露派政権を樹立した(2月)。閔妃暗殺事件は結局日本に有利な状況を作り出すことはできず、その後、ロシアはさらに朝鮮への影響力を強め、日本との対立が深刻化して日露戦争へと向かっていく。
参考 彼らを駆り立てたもの
実行犯の一人である小早川秀雄は「朝鮮とロシアの関係をこのまま放置しておくならば、日本の勢力は全く半島の天地から排斥され、朝鮮の運命はロシアの握るところとなり、・・・これは単に半島の危機であるばかりか、まことに東洋の危機であり、また日本帝国の一大危機といわねばならない。この形勢の変動を眼前に見る者は、どうして憤然と決起しないでおられようか」と書いている。彼は韓国に来る前は熊本の小学校の先生だった。(引用)このように全員が「閔妃暗殺は、日本の将来に大いに貢献する快挙である」と信じて、一点の疑いも抱いてはいなかった。《逆効果にはなりはしないか。日本を窮地に追いこむ結果になりはしないか》と思い悩んだり、ためらったりした人はいない。彼らの多くが、殺人は刑法上の重大犯罪であり、特に隣国の王妃暗殺は国際犯罪であることを知らなかったわけではない。しかしそれが、〝国のため〟であれば何をやっても許される、それをやるのが真の勇気だという錯覚の中で、殺人行為は「快挙」となり、〝美挙〟と化した。<角田房子『閔妃暗殺』1988 新潮社刊 p.306>角田房子の著作は現在では細部で誤りが訂正されているが、大筋では事件を正しく捉えている。どのような視点から見ても事件を正当化することはできない。また、無視したり、忘却することはできない。日本にとっても忘れたい事件であるが、事実に目を向けていくことが現在の日韓関係を良くしていく上でも必要である。<作成 2013/3/25>
閔妃暗殺事件 2023/2/15 <追記>
以上、角田房子氏の『閔妃暗殺』を紹介したが、歴史事実として閔妃及び閔妃殺害事件について、最近の歴史書ではどのように説明されているか、改めて検証してみよう。事件の発生 1895年10月8日未明、朝鮮王朝の王宮(景福宮)で、王妃の閔妃、宮内大臣李耕植が殺害された。襲撃したのは日本軍京城守備隊(公使館付武官楠瀬幸彦ら)、公使館員(堀口九万一ら)、公使館警察官、大陸浪人と言われた一般人(安達謙蔵ら)からなる日本人と、訓錬隊幹部禹範善が指揮する朝鮮人部隊が加わっていた。宮中には国王と王太子、閔妃がいたが、最も奥まった乾清殿にいた閔妃は踏み込んだ暴漢に殺害され、さらに兵士らによって遺体を焼かれた。王妃を守ろうとした侍衛隊長洪啓薫は戦死した。同日深夜、事件に先立ち岡本柳之助(朝鮮宮内府顧問)は漢城郊外に蟄居中の大院君を訪ねて説得、宮中に伴い、閔妃殺害後に大院君は高宗に会い、事態を収束させることを告げ、10日には閔妃を廃妃とした。
日本政府への報告 10月8日の公使館員らの動きを知らされていなかった日本領事館一等書記官内田定槌は事件当日に東京の原敬外務次官に第一報を送り「王妃を殺害したのは守備隊のある陸軍少尉である」と伝えた。事件が一段落してからの外務省への正式な報告では、内田書記官は「独り壮士輩のみならず、数多の良民、及び安寧秩序を維持すべき任務を有する当領事館員、及守備隊迄を煽動して、歴史上古今未曾有の凶悪を行うに至りたるは、我帝国の為実に残念至極なる次第に御座候」と報告した。<金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009 高文研 p.249,254>
事件の背景と経過
1895年春の三国干渉によって日本が遼東半島を清に還付したことから、朝鮮王朝内で閔妃を中心として親ロシア派の勢力が強まった。それに対して反閔氏政権の巻き返しが始まる情勢となった。まず大院君は4月に孫の李埈鎔が東学と結んで国王の廃位を目論んだという陰謀が明るみに出たことによって、蟄居させらていたので、閔妃に反撃する機会を狙っていた。親日派の中心にいた朴泳孝はかつての甲申政変の首謀者で、日本に亡命していたが、日清戦争中に日本公使井上馨の推薦で朝鮮に戻り、金弘集内閣に協力していた。朴泳孝は軍の改革を進めようとして日本士官によって訓練された訓錬隊を編制し、王宮を警備に当たらせようとしたが、高宗・閔妃は強く反対し、7月6日に朴泳孝は閔妃を除こうとした疑いで反逆罪に問われてしまった。そのため朴泳孝は難を避けて、二度目の日本亡命に向かった。訓錬隊に代わってアメリカ人士官の指導のもとで侍衛隊が設置されたので、訓錬隊には閔妃を恨むものが現れた。日本公使三浦梧楼 三浦梧楼は9月1日、漢城に入り、3日に前任者井上馨と共に国王高宗に信任状を提出した。その後も井上と引き継ぎの協議をしている。井上は親露派に関心を向けている閔妃を日本側に取り込もうと300万円の寄付と電信電話線の朝鮮への譲渡を提案していたが、いずれも閔妃に拒否されていた。それをうけて三浦公使はより強い手段で日本の立場を守る必要があると考え、公使館の杉村濬、朝鮮政府とパイプのある岡本柳之助らと秘密裏に協議し、大院君、訓錬隊の禹範善らとも連絡をとりながら計画を練った。構想では大院君と訓錬隊がクーデタをおこして閔妃政権を倒し、その混乱を日本軍が鎮定して親日派政権を樹立しようとしたものと思われる(杉村濬の残した手記などで確かめられる)。 ただし最初から閔妃の殺害を計画していたかはわからない。三浦公使は、かつて日清戦争直前の1894年7月23日に、日本軍が朝鮮王宮を襲撃して占領し、大院君を擁立して親日政権を建てたことが「成功体験」としてあったので、今回もその再現を狙ったとも考えられる。
閔妃殺害の実行 襲撃は日本人、朝鮮人からなる多数の実行者によって行われた。殺害現場は凄惨なものがあった。直接に殺害した人物を一人として特定することは困難で、日本の軍人、兵士、いわゆる壮士の中には自分こそ最初の一太刀をふるったとか、とどめを刺したとか、死体を確認したとか、運んで火葬にしたとか、様々な証言がある。集団で行われた殺害行為であり、一人の行為ではないので、「誰が閔妃を殺したか」という問は意味をなさない。閔妃殺害集団の主力となっていたのは日本人であったが、朝鮮人の訓練隊員が加わっていたことも事実である。<詳細は、木村幹『高宗・閔妃』2007 ミネルヴァ書房 p.246-256 を参照>
国際問題化 計画では閔妃殺害は深夜に行い、実行者は暗いうちに宮廷外に出る予定だったが、大院君引き出しに手間取り、結局犯行を終えて引き上げるのが早朝となってしまい、宮中にいたロシア人政治顧問やアメリカ人軍事顧問に、日本人が血刀を下げて意気揚々と引き上げるところを目撃されてしまったため、国際問題化した。14日、アメリカの『ニューヨーク・ヘラルド』は「日本人は王妃の部屋に押し入り、王妃閔妃と内大臣、女性三人を殺害した」という第一報を10日に漢城から発進したが、東京でさし止められていた、と報じた<原田敬一『日清・日露戦争』2007 岩波新書 p.193>。またイギリス人のジャーナリストは事件の詳細を取材し、英字新聞に発表した。このあたりの事情は、事件の前後に朝鮮に滞在したイギリス女性旅行家イザベラ・バードの記した旅行記『朝鮮紀行』(講談社学術文庫刊)に詳しく記されている。<イザベラ・バード/時岡敬子訳『朝鮮紀行』1998 講談社学術文庫 p.351-361>
裁判 事件の国際問題化に困惑した日本政府は10月15日に外務省政務局長小村寿太郎を派遣、現地調査に当たらせた。小村は三浦梧楼公使、杉村公使館員、岡本朝鮮政府顧問など被疑者40数名を帰国させ、日本で裁判を受けさせることになった。他に関与した軍人は広島の第五師団で軍法会議にかけられることになった。
朝鮮政府では日本に対する不信の増大を背景に大院君と親日派は力を失い、訓錬隊は解散となり、閔妃廃妃の詔勅も撤回された。12月1日に閔妃の死が正式に発表され、葬儀が執り行われた。同時にその死因は訓錬隊と日本公使館、そして日本人壮士の王宮襲撃にあったことが発表され、その処罰がなされることになった。金弘集政府は事件の収束を早めようと裁判を急ぎ、朝鮮王朝法部は謀反事件の犯人として朴鉄、李周会、尹錫禹の三名を逮捕し、12月29日に死刑判決が出された。彼らはいずれも計画には参加していないと主張したが、実行に加わったことを自白したため、有罪とされた。日本人実行犯に対しては、当時の朝鮮王朝では日朝修好条規が日本人に治外法権を認めている不平等条約であったので、日本人を裁く事はできなかった。
朝鮮で朝鮮人三人の犯行と確定したことを受け、1896年1月20日、広島地方裁判所の予審において三浦前公使以下は事件への関与は認定されたものの、閔妃殺害の実行に関しては証拠不十分として免訴となり、広島の軍法会議でも全員無罪という判決となった。領事裁判権の時代だったので漢城の日本人に対する領事裁判も行われたが、取り調べる側の領事にも王宮侵入に加わった者がいるありさまだった。<山辺健太郎『日韓併合小史』p.120>
事件の影響 訓錬隊と日本公使館守備兵による王宮襲撃事件としての閔妃暗殺事件は、朝鮮王朝内の親露派、親米派にも深刻な危機意識を引き起こし、彼らの中に米露両国の公使館に避難し、対抗する形で武装クーデタを企てるものが現れた。11月28日、アメリカ人ダイらに率いられて王宮攻撃を試みたが王宮の親衛隊に阻止されて失敗した。これは「春生門事件」ともいわれ、国王周辺は極度の緊張感に覆われた。親露派・親米派のクーデタを鎮圧した親衛隊の背後には依然として宮中に留まっている大院君がいるのではないか、と疑われたからである。<木村幹『前掲書』p.258-260>
そのような緊張が続く中、民衆の中に「国母」閔氏を殺害した日本人の犯行に対する非難が高まっていたが、金弘集内閣は日本に妥協的でその関与責任の追及をしなかったことで不満が強まっていった。金弘集内閣は開化政策を進めることで民衆の不満を解消しようと12月に断髪令を出した。しかしそれは伝統的な髷を切る事への民衆の素朴な反発を呼び起こすこととなり、各地で武装した民衆運動が起こった(初期の義兵闘争)。
いずれにせよ、閔妃暗殺は、国際的な批判を呼び起こして朝鮮における日本の国際的な発言力を弱めたこと、一時的な親日政府を作ったものの、民衆の反日意識を初期の義兵党争へと点火させたこと、高宗を露館播遷に追いこみ親ロシア派の台頭を許したこと、などから日本外交の大きな失点となった。
高宗の露館播遷 1896年2月11日、国王高宗は突然、景福宮からロシア公使館に遷るという「露館播遷」を決行した。それはロシア公使ウェーバーの後援による親ロシア派の一種のクーデタであり、それによって日清戦争以来の親日的な姿勢を保ってた改革派政権が崩壊したことを意味していた。露館播遷に反対した総理大臣金弘集らは激昂した民衆に撲殺された。
高宗は同時に詔勅を発表し、「禍乱の張本人」として閔妃事件の時の軍務大臣趙義淵、訓錬隊隊長禹範善、その他の名前を挙げ、民衆に直ちに斬首して朕の観覧に供せよ、と呼びかけた。恐れた趙義淵は逃亡し、禹範善は日本に亡命した。禹範善は王太子(後の純宗)も「国母」を殺害した人物して名前を挙げており、日本亡命後に朝鮮王朝の放った刺客によって殺されている。
残された謎
- 日本政府はどこまで関わっていたか 現在は日本では三浦梧楼公使と現地の外交官・軍人・大陸浪人といわれる民間人が謀議したことまでは明らかになっており、実行にも彼らが加わったことは確実なので、日本の関与とされるのは避けられないが、問題は政府・外務省や軍の中枢(大本営や参謀本部)は知っていたかどうか、である。政府や軍中枢が事前に知っていたか、については否定的な見解が多い。ただし、最近では前公使井上馨の関与、あるいは朝鮮半島の電信線の確保を図るという軍事目的が強かったとみて当時の実質的な軍の最高の地位にいた川上操六参謀副長が、三浦梧楼と共謀したという視点も提出されている。<金文子『前掲書』2009>
- 大院君ははたして首謀者であったか 事件の首謀者は大院君であり、実行犯の中心は訓錬隊の朝鮮人兵士だった、日本人はそれに協力しただけである、とする説は当時の朝鮮政府の公式見解であり、日本人の関与を否定する際によく引き合いに出される。大院君が首謀者である可能性は、その閔妃に対する敵愾心の強さから、当然考えられるが、日本の協力がなければ軍事クーデタは不可能であっただろう。その際、大院君側が日本に働きかけたというのは、それまでの日本に対する姿勢から見て非現実的で、やはり、いつものように日本側が大院君を利用したとみるのが妥当であろう。
- 何のために凶行に至ったか 閔妃殺害は意図されていたが、偶然だったか、という議論は、当日の日本軍人、壮士たちのさまざまな証言から、当初から殺害目的であったことはあきらかである。では何のため殺害したのか、という問が残る。平たく云えば、当時の漢城にいた日本人の中に、日清戦争で勝利して朝鮮を独立させてやったのに、ロシアにその立場を奪われる、という危機感を持つようになり、愛国心から立ち上がった、という心情なのであろう。事件が明るみに出たときには、事件は血気にはやった民間人がやったことだと、まず宣伝された。もしそうだとすれば、近代的な外交交渉を掲げる法治国家であれば、そのような暴発は国家が抑えるのが通常であろう。ところが徐々に明らかになったことは公使や軍人の公的な立場にあるものの関与だった。そのレベルになると、三国干渉を受け入れざるを得なかったことで傾いた朝鮮での日本の地位を、なんとか回復するための国家的意図があった、ということになる。それは日露戦争期の保護国化を経て、1910年の韓国併合へと向かっていく。
現在の一般的な近代の歴史理解では、1895年の朝鮮王朝王妃の閔妃を暗殺した事件に、日本の公使館や軍人、民間人が深くかかわっていたことは認められている。角田房子の『閔妃暗殺』が出た頃に比べれば大きく変わった。ところが、2000年代に入ってからか、日韓関係の風向きが怪しくなるにつれて、事件への日本人の関与を否定するような論調が現れている(wikipedia 乙未事件の項参照)。しかし実は、日本の事件当時の公式見解こそが、閔妃暗殺事件の本質は朝鮮内部の政治抗争であり、それに日本の一部の軍人、民間人が巻き込まれたものであり、日本人実行者は犯罪行為は認められず、国としても関与していない、というものだった。最近のネットで散見するような見方は、戦前の言説をなぞっているだけなのだ。
第二次大戦後の研究の自由の進展でようやく日本公使館、軍、民間人の行為が明らかにされたのだが、国家レベルでは公式見解は変わっておらず、ましてや謝罪はない。120数年前の過去の出来事として忘却しよう、という姿勢のようだ。今必要なのは、戦前の公式見解に戻るのではなく、また事件を忘却したり、無視するのではなく、また歴史教育の現場では、微妙な問題だからと云って触れるのを避ける、といったことではなく、歴史の文脈の中に事実を正しく位置付けていく作業であろう。
<追記について> このサイトの「閔妃暗殺事件」の項が、角田房子の『閔妃暗殺』を根拠としている事への批判のメールをいただいたことから、改訂をしようと思ったことがきっかけです。メールでは、「角田氏の著作が一部は間違えているが大筋では間違いない」という根拠はあるのか、という質問でした。そのため、改めて角田氏以後の朝鮮史関係の主な本を勉強し直しすることにしました。その結果、まさに大筋では間違いないことが確かめられましたので、記事を改訂することはせず、<追記>としてその後の勉強で判ったことの要点のまとめることにしました。高校生の受験勉強にはいささか馴染まないかも知れませんが、歴史の事実を探求するという作業の一例ともなるかと思い、公開します。
なお、角田氏の著作で誤りとされる部分の一つは、表紙に使われた閔妃の写真ですが、それは最近の研究では閔妃ではない、とされるようになっていることを含みます。またメールをくれた人は、閔妃を「国母」とするのは誤りで、角田の本が信用できない証拠だ、と言っています。しかし、閔妃は民衆からは「国母」と云われており、実子の王太子も「国母」と呼んでいますから間違いとは云えないと思います。またメールでは閔妃は宗教に凝って大金を貢ぐといった人で、国民からは恨まれていたと書いてありました。閔妃が「悪女」だとう説も戦前の暗殺事件直後から盛んに宣伝されたことで、それは殺されても仕方ない女だったんだ(福沢諭吉あたりが盛んに宣伝したと言われています)、というニュアンスがあり、いただけません。ここでは閔妃を弁護しても仕方がありませんが、閔妃の項でその人物像としてイザベラ=バードの観察を多く引用しておきました。
またメールではわたしの記事は角田の本の誤りである日本人犯人説をくりかえすだけで、偏向しており「歴史を偽造」するものだ、このような自虐的な記事を書くから韓国の人が誤解し、日韓関係を悪くしているのだ、という見解が述べられていました。これには曲解も甚だしいと呆れるばかりですが、メールへの反論も含めて勉強の結果を<追記>として書き加えました。また誤解を避けるため、引用、紹介に当たっては、偏らないように極端な論者は避け、定評のある著者や広く認められている新書など(残念ながら日本語文献だけですが)からに限定しました。勿論、すべての参考文献に当たったわけではないので、まだ勉強は続くことになります。<2023/2/15 記>
日韓併合の真実‐閔妃暗殺の嘘 http://nikkanheigo.japonismlove.com/minbi.html
返信削除美味しんぼが消された理由はここにあった。イスラエルモサドNHKはそもそも幕末長州ファイブ伊藤博文ロスチャイルドスパイとジョン万次郎東大福沢諭吉慶應義塾ロックフェラーフリーメーソンスパイが日露戦争後合体したイルミナティである。だから伊藤博文の悪事を必死で隠蔽せねばNHKの正体がばれるのだ。人気アニメにそんなことをやられたら伊藤博文が作った大日本帝国憲法と国家神道廃仏毀釈の売国奴悪行もすべて明るみに出てしまう。もちろん昭和天皇は大正天皇の子どもではなくて徳山藩八男の毛利八郎の息子であり、毛利八郎は西園寺家へ養子に行ってから低迷皇后を犯して昭和天皇という息子の外戚として権勢を私服化したのである。この悪事が伊藤博文の閔ピ暗殺悪行を暴かれるとすべて明るみに出てしまう。だから福島原発の風評被害をでっちあげて美味しんぼをつぶしたのだ。犯人はNHK東大慶応大ダボス王ラームエマニュエルとその手羽先スパイ養成組織創価南米麻薬密輸王池田大作憲法20条違反政教一致カルト憲法15条違反憲法99条違反国家反逆刑法81条外患誘致麻薬密売国連憲章違反戦争犯罪組織公明党だ。極東最大世界最大米軍基地で核兵器の脅しで領土変更したアメリカ合衆国占領地無法ヤクザ共政会と共犯者が跋扈する岩国市がその巣窟である。岩国は米軍と創価と岩国地裁岡田総司と岩国刑務所長と岩国市長福田良彦と後援会長柏原伸二とその手下広島共政会地面師田中優と林芳正共謀共同正犯世界最悪731医療殺人偽医者戦争犯罪秘密基地なのさ。岩国市だけで基地補助金が毎年5000億円以上最近は1兆円近く全国民が納めた税金とATMマイナンバーカードでNHKが国民から盗んだ受信料100兆円の特別会計から天下ってくるのだ。沖縄県全体で基地補助金はわずか2500億円だというのになぜ岩国市だけその3~4倍あるかというと、岩国基地の地下にプルトニウム核弾頭が保管してあるからだ。ウランは広島型プルトニウムは長崎型プルトニウムはウラン燃料を原子炉で燃やして初めて生成するので1945年当時原子炉を持ってなければ作れない。アメリカも日本もソ連も持たない原子炉をドイツだけが持っていたから広島長崎原爆はドイツから盗んだものだ。アメリカは嘘しか言わない。ネバダで巨大原爆を地上起爆した時ウラン原爆は濃縮精製が悪く25トンを超える巨大なものであり船で運べても飛行機に積むのは不可能。日本も同じ程度しか研究が進んでいなかったし久留米地下の実験場は失敗して吹き飛んでいた。これだけ事実があれば地上起爆があり得ない妄想だとわかろう。実際広島の長崎もクレーターがなく熱線があるのは空中起爆の証拠。威力は本来プルトニウムのほうがウランをはるかにうわ回り質量当たり破壊力は数十倍だが当時は精製濃縮が悪く大型になったからファットマン。ドイツ以外では作れない。プルトニウムは水爆起爆に不可欠のイニシエーター。水爆は本来核融合なので放射能汚染がないが、ビキニで死の灰がなぜ福竜丸を襲ったか。イニシエーターに大量のプルトニウムを使ったためだ。核融合炉はできない。それは太陽だから。人間には水爆しか作れない。科学はすべて嘘八百妄想だ。嘘つきが人を殺して盗むための詐欺小道具だ。岩国は1945年8月15日鬼畜米軍に前の日に岩国駅だけ史上最悪高密度絨毯爆撃で壊滅されて陸の孤島としてアメリカに奪われた米国である。国連憲章違反戦争犯罪第1号だ。
岩国は1945年8月15日鬼畜米軍に前の日に岩国駅だけ史上最悪高密度絨毯爆撃で壊滅されて陸の孤島としてアメリカに奪われた米国領土である。国連憲章違反戦争犯罪第1号だ。岩国で起こった殺人強姦強奪凶悪犯罪事件は何一つ岩国市民にさえ知らされず岩国地裁が全力で隠蔽し全て秘密裏に葬ろうとする。それがこの閔ピ暗殺事件で伊藤博文ヒニンが同郷田布施の三浦梧楼ヒニンに命令した強姦強殺死体焼却暗殺犯罪の本質である。三浦らは王宮に押し入って醜悪愚劣な強姦強殺略奪の限りを尽くした一神教カルト中世ヨーロッパの悪魔崇拝鬼畜外道だ。三浦ヒニンの無法残虐乱暴狼藉の実態がこのブログに記されている。「王妃をひきだして、2~3ヵ所に切り傷を負わせ、かつ、裸体にして笑いながら、また怒りながら、王妃の局部を念入りに検査し、最後に油を注いで閔妃を殺害した」
返信削除(朝鮮王妃事件関係資料・ペン書き)
伊藤博文は武士ではなく山県有朋と共に暗殺専門嘘八百偽計で人を密かに「暗殺」し証拠隠滅する色欲煩悩拝金亡者外道極刑犯罪者に過ぎないのだ。漫画「美味しんぼ」主人公山岡士郎の指摘のとおりである。それを否定して伊藤博文ヒニン暗殺政治戦争犯罪テロリスト犯行を擁護するのは自ら嘘つき強盗強姦殺人極刑外患誘致犯罪者国連憲章違反武力による一方的占領犯罪鬼畜米英スパイであると自白するに等しい愚行である。(笑)
いかなる犯罪も武力を用いず法で公明正大に処断する。これが日本人だ。その法は最勝王経仏法日本国憲法。24時間365日聞くがよい。
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