【秘蔵】第27回自民党臨時大会で新総裁に田中角栄氏を選出(1972年7月5日)【永田町365~今日は何の日】

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これが日本国憲法前文「正当な選挙」である。心がすべてを作り出す。
西郷隆盛を知らない我々は自分の真の姿も見えないという証拠 http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/744.html 西郷隆盛は偉大な政治家であり、征韓論など唱えておらず、西郷追放はひも付きのクーデター
@豊岳正彦
西郷隆盛を知らない我々は自分の真の姿も見えないという証拠
http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/744.html
西郷隆盛は偉大な政治家であり、征韓論など唱えておらず、西郷追放はひも付きのクーデター
リーマンさん。 こんにちわ。最近は時間を見つけて狂牛病投稿(資料翻訳と作成、参考文献のまとめ)を行ったので、応答できませんでした。翻訳等に3時間かかりました。今回はとりあえず西郷さん関係の重要投稿を転載させていただきます。非常に大事なことなので全文引用で。何よりも雄弁に事実が語っていると。上野公園にいけば、高村光雲作の西郷像が立っています。みんなで拝見にいきましょう。
-引用開始-
(Re: 幕末期に入った国際金融資本の魔手
http://www.asyura.com/0306/idletalk2/msg/380.html
投稿者 通りすがり 日時 2003 年 7 月 20 日 00:12:30:
面白い! ただ私は、メインとなったのは薩摩ではなく長州だと思いますよ。
白石正一郎とか伊藤博文とか井上馨とか。上海にまでしょっちゅう出張ってましたしね。
それに結局、薩摩閥(特に西郷一派)は西南戦争で粛清されちゃいましたし。
ここらへんのことは、副島隆彦の『属国・日本論』に詳しかったはず。一読あれ。
>西郷が征韓論を唱えたということになっていますが、怪しいものです。
毛利敏彦の『明治六年政変』や松浦玲の『横井小楠』に詳しいですが、
「西郷が征韓論を唱えた」というのは、もはやデマで確定でしょう。-引用終わり
-引用開始-
((西郷隆盛の生涯)岩倉洋行団の出発から西郷内閣まで
http://www.asyura2.com/0311/bd32/msg/492.html
投稿者 愚民党))
(西郷隆盛の生涯)岩倉洋行団の出発から西郷内閣まで
(大久保、木戸らの外遊と西郷の留守内閣)
 明治4(1871)年11月12日、岩倉具視を特命全権大使とし、副使に木戸孝允、大久保利通が任命され、以下同行の留学生を合わせて百名を超える大洋行団が、横浜を出港しました。この岩倉洋行団の目的は、江戸幕府が締結した修好通商条約の条約改正の下準備とヨーロッパ、アメリカなどの文明諸国視察を兼ねていました。しかし、まだ廃藩置県が行われて4ヶ月しか経っておらず、いつ日本に騒動が起こるかもしれない状況でのこの洋行団の出発は、時期尚早だったといっていいでしょう。
 特に、大久保は、島津久光が廃藩置県に対し、大きな不満を持ち、西郷と大久保を憎んでいるということを聞いていたので、ほとぼりがさめるまで、それから逃げ出したいという気持ちも恐らくあったと思います。
 かなり無責任な話ですが、大久保という人物は、その生涯において自分に都合の悪いことが起きると、それから責任逃れをするクセがあります。特に自分を見出してくれた久光に対しては、その大久保の性格が顕著に表れています。
 話が横道にそれましたが、こんな困難な状況を一手に任された西郷も西郷だとは思いますが、西郷も大いに政府を運営する自信があったからこそ、留守を引き受けたのでしょう。木戸や大久保らがいない内に、斬新な改革を進めようと考えていたかもしれません。鬼のいぬまになんとか・・・という感じだったのでしょう。岩倉らが出発すると、西郷を中心とした内閣は、次々と新しい制度を創設したり、改革案を打ち出していきました.
特筆したものをあげていくと、
①警視庁の発端となる東京府邏卒の採用、
②各県に司法省所属の府県裁判所の設置、
③田畑永代売買解禁、
④東京女学校、東京師範学校の設立、
⑤学制の発布、
⑥人身売買禁止令の発布、
⑦散髪廃刀の自由、切り捨て・仇討ちの禁止、
⑧キリスト教解禁、
⑨国立銀行条例の制定、
⑩太陽暦の採用、
⑪徴兵令の布告、
⑫華士族と平民の結婚許可、
⑬地租改正の布告、
などの斬新な改革を次々と打ち出していったのです。
 これら全ての改革が西郷の発案によるものでは当然ありませんが、西郷が政府の首班(首相)として成し遂げた改革であることは、まぎれもない事実です。よく、西郷に政治能力はなく、明治政府においてただの飾り物に過ぎなかったと書く本が、残念ながらまだ多数出版されています。しかし、ただの飾り物でしかない西郷を中心として、このような思い切った改革が次々と出来るでしょうか。また、西郷が政府の首班として在職していた間は、明治政府が当初悩んだ農民一揆や反政府運動というものは、ほとんど起こることがありませんでした。これは世の人々が、西郷の政治に満足していた結果であると言えましょう。明治新政府がやらなければならなかった諸改革のほとんどが、この西郷内閣で行われたのです。これをもってしても、西郷の政治手腕を高く評価するべきではないでしょうか。
@豊岳正彦
((西郷隆盛の生涯)西郷の遣韓論
http://www.asyura2.com/0311/bd32/msg/493.html
投稿者 愚民党)(西郷隆盛の生涯)西郷の遣韓論
(征韓論の経緯)
 いよいよ西郷の一番の謎とされる征韓論のことを書く時がやってきました。前にも少しですが書いた通り、西郷は「征韓論」などという乱暴なことを主張したことはただの一度もありません。
 では、なぜ西郷が征韓論の巨頭と呼ばれることが、歴史の通説となってしまったかを簡単に述べていきましょう。
 まず、日本と朝鮮の関係がいつ頃からもつれてきたかと言いますと、明治初年、新政府が朝鮮に対して国同士の交際を復活させようとしたことに始まります。元来、日本と朝鮮とは、江戸幕府の鎖国政策の時代から交際を続けていました。
 しかし、江戸幕府がアメリカやロシアといった欧米列強諸国の圧迫に負け、通商条約を結んだことにより、朝鮮は、日本と国交を断絶したのです。その頃の朝鮮も、欧米列強を夷狄(いてき)と呼んで鎖国政策を取っており、外国と交際を始めた日本とは交際出来ないという判断だったのです。(参考:服部之総「撥陵遠征隊」aozora.gr.jp/cards/001263/files/50367_39396.html)
 このようにして、江戸幕府は朝鮮から国交を断絶されたのですが、当時の幕府はその朝鮮問題に熱心に関わっている時間がありませんでした。当時の江戸幕府としては国内外に問題が山積されていたので、それどころではなかったのです。
 そして、その江戸幕府が倒れ、明治新政府が樹立されると、新政府は朝鮮との交際を復活させようとして、江戸時代を通じて朝鮮との取次ぎ役をつとめていた対馬の宗氏を通じて、朝鮮に交際を求めました。
 しかし、その当時の朝鮮政府は、明治政府の国書の中に「皇上」とか「奉勅」という言葉があるのを見て、明治政府から送られてきた国書の受け取りを拒否しました。朝鮮政府としては、先の「皇上」とか「奉勅」という言葉は、朝鮮の宗主国である清国の皇帝だけが使う言葉であると考えていたからです。
 このようにして、朝鮮政府は明治政府の国交復活を完全に拒否したのです。明治政府はその後も宗氏を通じて朝鮮に国書を送りつづけましたが、朝鮮政府は受け取りを拒否続け、一向にらちがあきませんでした。
 そのため、明治政府は、直接、外務権大録(がいむごんのだいろく)の佐田白芽(さだはくぼう)と権小録の森山茂、斎藤栄を朝鮮に派遣しました。しかし、3人は朝鮮の首都にも入れず、要領を得ないまま帰国せざるを得なくなったのです。
 目的を果たせず帰国した佐田は、激烈な征韓論を唱え始め、政府の大官達に「即刻朝鮮を討伐する必要がある」と遊説してまわったのです。これは明治3(1870)年4月のことで、西郷はまだ郷里の鹿児島におり、新政府には出仕していません。
 そして、この佐田の激烈な征韓論に最も熱心になったのは、長州藩出身の木戸孝允です。木戸が征韓論を唱えていたということに驚く方がおられるかも分かりませんが、これは事実です。木戸は同じく長州藩出身の大村益次郎宛の手紙に、「主として武力をもって、朝鮮の釜山港を開港させる」と書いています。
 木戸はこのようにして征韓論に熱心になったのですが、当時の日本には廃藩置県という重要問題があったので、その征韓論ばかりに構っているわけにはいきませんでした。
 そして、廃藩置県後、木戸は岩倉らと洋行に旅立ったので、木戸としては征韓論を一先ず胸中にしまうということになりました。しかし、前述の佐田らは征韓論の持論を捨てず、政府の中心人物になおも説いてまわっていたので、征韓論は人々の間で次第に熱を持ってきたのです。
 そして、明治6(1873)年5月頃、釜山にあった日本公館駐在の係官から、朝鮮側から侮蔑的な行為を受けたとの報告が政府になされたのです。まさに朝鮮現地においては、日本と朝鮮とが一触即発の危機にありました。
 その報告を受けた外務省は、西郷中心の太政官の閣議に、朝鮮への対応策を協議してくれるよう要請しました。こうして、明治6(1873)年6月12日、初めて正式に朝鮮問題が閣議に諮られることとなったのです。
@豊岳正彦
(西郷の遣韓大使派遣論)
 閣議に出席した外務少輔(がいむしょうゆう)の上野景範(うえのかげのり)は、「朝鮮にいる居留民の引き揚げを決定するか、もしくは武力に訴えても、朝鮮に対し修好条約の調印を迫るか、二つに一つの選択しかありません」と説明しました。
 その上野の提議に対して、まず参議の板垣退助が口を開きました。板垣は、「朝鮮に滞在する居留民を保護するのは、政府として当然であるから、すぐ一大隊の兵を釜山に派遣し、その後修好条約の談判にかかるのが良いと思う」と述べ、兵隊を朝鮮に派遣することを提議しました。
 しかし、その板垣の提案に西郷は首を振り、次のように述べました。
「それは早急に過ぎもす。兵隊などを派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。
これまでの経緯を考えると、今まで朝鮮と交渉してきたのは外務省の卑官ばかりでごわした。
そんため、朝鮮側も地方官吏にしか対応させなかったのではごわはんか。
ここは、まず、軍隊を派遣するということは止め、位も高く、責任ある全権大使を派遣することが、朝鮮問題にとって一番の良策であると思いもす。」
西郷の主張することは、正論です。板垣の朝鮮即時出兵策に西郷は反対したのです。
西郷の主張を聞いた太政大臣の三条実美は、「その全権大使は軍艦に乗り、兵を連れて行くのが良いでしょうな。」
と言いました。しかし、西郷はその三条の意見にも首を振ります。
「いいえ、兵を引き連れるのはよろしくありもはん。大使は、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、威儀を正して行くべきでごわす。」
この西郷の堂々とした意見に、板垣以下他の参議らも賛成したのですが、一人、肥前佐賀藩出身の大隈重信(おおくましげのぶ)だけが異議を唱えました。大隈は、「洋行している岩倉の帰国を待ってから決定されるのが良い。」と主張したのです。
その意見に西郷は、「政府の首脳が一同に会した閣議において国家の大事の是非を決定出来ないのなら、今から正門を閉じて政務を取るのを止めたほうが良い。」と大隈に言いました。
こう西郷に言われれば、大隈としても異議を唱えることは出来ません。そして、その後、西郷はその朝鮮への全権大使を自分に任命してもらいたいと主張しました。西郷としては、このこじれた朝鮮問題を解決できるのは、自分しかいないとも思い、相当の自信もあったのでしょう。
しかし、閣議に出席したメンバーは、西郷の申し出に驚愕しました。西郷は政府の首班であり、政府の重鎮です。また、この朝鮮へ派遣される使節には、非常に危険が伴う恐れがあったのです。西郷が朝鮮に行き、もしも万一のことがあったら、政府にとってこれほどの危機はありません。
そのため、他の参議らは西郷の主張に難色を示しました。西郷はそれでも自分を行かせて欲しいと主張したのですが、この閣議では結論が出ず、取りあえずその日は散会となったのです。
 このように、これまで征韓論と呼ばれる一連の出来事の経過を、軽くですが書いてきました。これを読んで頂ければ分かるように、西郷のどの言葉や行動にも「征韓」などという荒っぽい主張はどこにも出てこないことが分かることでしょう。逆に、征韓論について、反対意見すら述べていることが分かると思います。
 これとは逆に、西郷を征韓論者だと決め付けている人々は、必ずと言って良いほど西郷の板垣退助宛書簡 (西郷が板垣に宛てた手紙の中に、征韓を匂わせる文言がある)を持ち出すのですが、これはまったく当ての外れた推測としか言いようがありません。
 この板垣宛書簡については、書きたい事が山ほどありますが、征韓論については、今後もテーマ随筆で取り上げていくつもりなので、これ以上ここで詳細な経過を書くことは紙幅の関係で控えます。しかし、一応、この後のこの征韓論争の経過だけを軽くですが、書いていきます。
 西郷はその後、紆余曲折を経て、朝鮮使節の全権大使に任命されます。西郷としては大いに頑張るつもりで準備を始めたのですが、ここに洋行から帰った岩倉具視と大久保利通が、西郷の前に立ちはだかります。岩倉と大久保は、再び閣議を開き、その席において、西郷の朝鮮派遣に反対意見を述べるのです。
 理由は、次のようなことでした。西郷が朝鮮に行けば、戦争になるかもしれない、今の政府の状態では外国と戦争をする力がないので、朝鮮使節派遣は延期するのが良い。
 一見すれば尤もな意見と思われますが、大久保や岩倉の主張は、西郷が朝鮮に行けば必ず戦争になるということを前提として論を展開しています。
 しかし、西郷は戦争をしないために平和的使節を派遣したいと言っているのです。岩倉や大久保が戦争になると決め付けて反対意見を述べるのには、西郷は納得がいきません。
 ここで、西郷と大久保の間で大論戦が繰り広げられるのですが、結局西郷の主張が通り、西郷派遣が正式決定されたのですが。しかし、岩倉の最も腹黒い策略で、西郷の朝鮮派遣は潰されてしまいました。
 岩倉が閣議で決定された事を天皇に奏上しようとせず、自分の個人的意見(西郷派遣反対)を天皇に奏上すると言い張ったのです。今から考えればそんなバカなことがあるか、と思うかもしれませんが、現実にそれが行われたのです。
 そうなれば、今までの閣議は何のための会議だったのでしょうか、と思わざるを得ません。
 一人の人間の私心によって、国の運命が決められたのです。こうして、西郷の遣韓論は潰されたのです。
 ここで、一つ付け加えます。よくこの明治六年の政変(いわゆる征韓論争)は、西郷ら外征派(朝鮮を征伐する派)と大久保ら内治派(内政を優先する派)との論争であると書かれている本がたくさんあります。しかし、それはまったく事実と反します。
 まず、西郷は公式の場で、朝鮮を武力で征伐するなどという論は一回も主張していません。
 また、今まで書いてきたように、当初は板垣らの兵隊派遣に反対し、平和的使節の派遣を主張すらしているのです。
 また、内政を優先させるのが先決であると主張した大久保の方ですが、大久保がその後にした事と言えば、明治7年には台湾を武力で征伐して中国と事を構え、翌8年には朝鮮と江華島で交戦し、朝鮮と事を構えています。
 朝鮮に対しては、軍艦に兵隊を乗せて送りこみ、兵威をもって朝鮮を屈服させ、修好条約を強引に結ばせました。
 西郷の平和的使節派遣に反対し、内政の方が優先するといった大久保がこんなことをやってのけたのです。
 これをもってしても、外征派対内治派という構図が、いかにまやかしであったかが分かることでしょう。
 いつの間にか歴史の通説において、西郷を征韓論の首魁と決め付けるようになったのは、大久保らが自分らの正当性を主張するがゆえのまやかしであったのです。また、その他にも色々な理由があるのですが、それは後日テーマ随筆で取り上げていきたいと思います。
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/
-引用終わり-

参考:南洲留魂祠 大町桂月
https://www.aozora.gr.jp/cards/000237/files/48679_34155.html
南洲手抄言志録01 詠詩勝 海舟
https://www.satokazzz.com/airzoshi/reader.php?action=aozora&id=48282
遺訓 西郷隆盛https://www.aozora.gr.jp/cards/001320/files/47885_31033.html
https://www.satokazzz.com/airzoshi/reader.php?action=aozora&id=47885

遺訓 西郷隆盛 一 廟堂に立ちて大政を爲すは天道を行ふものなれば、些とも私を挾みては濟まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を蹈み、廣く賢人を選擧し、能く其職に任ふる人を擧げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れゆゑ眞に賢人と認る以上は、直に我が職を讓る程な
らでは叶はぬものぞ。故に何程國家に勳勞有る共、其職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也。官は其人を選びて之を授け、功有る者には俸祿を以て賞し、之を愛し置くものぞと申さるゝに付、然らば尚書(○書經)仲※(「兀のにょうの形+虫」、第4水準2-87-29)(ちゆうき)之誥(かう)に「徳懋(さか)んなるは官を懋んにし、功懋んなるは賞を懋んにす
る」と之れ有り、徳と官と相配し、功と賞と相對するは此の義にて候ひしやと請問(せいもん)せしに、翁欣然として、其通りぞと申されき。 二 賢人百官を總べ、政權一途に歸し、一格(かく)の國體定制無ければ、縱令(たとひ)人材を登用し、言路を開き、衆説を容るゝ共、取捨方向無く、事業雜駁にして成功有べからず。昨
日出でし命令の、今日忽ち引き易ふると云樣なるも、皆統轄する所一ならずして、施政の方針一定せざるの致す所也。 三 政の大體は、文を興し、武を振ひ、農を勵ますの三つに在り。其他百般の事務は皆此の三つの物を助くるの具也。此の三つの物の中に於て、時に從ひ勢に因り、施行先後の順序
は有れど、此の三つの物を後にして他を先にするは更に無し。 四 萬民の上に位する者、己れを愼み、品行を正くし、驕奢を戒め、節儉を勉め、職事に勤勞して人民の標準となり、下民其の勤勞を氣の毒に思ふ樣ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創(さうさう)の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財
を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戰も偏へに私を營みたる姿に成り行き、天下に對し戰死者に對して面目無きぞとて、頻りに涙を催されける。 五 或る時「辛酸ヲ幾ビカ歴テ志始テ堅シ。丈夫玉碎甎全ヲ愧ヅ。一家ノ遺事人知ルヤ否ヤ。兒孫ノ爲メニ美田ヲ買ハ不。」との七絶を示されて、若し此の言に違ひなば、西郷は言
行反したるとて見限られよと申されける。 六 人材を採用するに、君子小人の辨酷(べんこく)に過ぐる時は却て害を引起すもの也。其故は、開闢以來世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、其長所を取り之を小職に用ひ、其材藝を盡さしむる也。東湖先生申されしは「小人程才藝有りて用便なれば、用
ひざればならぬもの也。去りとて長官に居(す)ゑ重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆゑ、決して上には立てられぬものぞ」と也。 七 事大小と無く、正道を蹈み至誠を推し、一事の詐謀(さぼう)を用ふ可からず。人多くは事の指支(さしつか)ゆる時に臨み、作略(さりやく)を用て一旦其の指支を通せば、跡は時宜(じ
ぎ)次第工夫の出來る樣に思へ共、作略の煩ひ屹度生じ、事必ず敗るゝものぞ。正道を以て之を行へば、目前には迂遠なる樣なれ共、先きに行けば成功は早きもの也。 八 廣く各國の制度を採り開明に進まんとならば、先づ我國の本體を居(す)ゑ風教を張り、然して後徐(しづ)かに彼の長所を斟酌するものぞ。否らずして猥りに彼れに倣ひなば、國體は
衰頽し、風教は萎靡(ゐび)して匡救す可からず、終に彼の制を受くるに至らんとす。 九 忠孝仁愛教化の道は政事の大本にして、萬世に亙り宇宙に彌り易(か)ふ可からざるの要道也。道は天地自然の物なれば、西洋と雖も決して別無し。 一〇 人智を開發するとは、愛國忠孝の心を開くなり。國に盡し家に勤むるの道明かなら
ば、百般の事業は從て進歩す可し。或ひは耳目を開發せんとて、電信を懸け、鐵道を敷き、蒸氣仕掛けの器械を造立し、人の耳目を聳動(しようどう)すれ共、何に故電信鐵道の無くては叶はぬぞ缺くべからざるものぞと云ふ處に目を注がず、猥りに外國の盛大を羨み、利害得失を論ぜず、家屋の構造より玩弄物に至る迄、一々外國を仰ぎ、奢侈の風を長じ、財用を浪費
せば、國力疲弊し、人心浮薄に流れ、結局日本身代限りの外有る間敷也。 一一 文明とは道の普く行はるゝを贊稱せる言にして、宮室の壯嚴、衣服の美麗、外觀の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蠻やら些(ち)とも分らぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り、西洋は野蠻ぢやと云ひしかば、否な文明ぞと爭ふ。否な野蠻
ぢやと疊みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、實に文明ならば、未開の國に對しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開矇昧の國に對する程むごく殘忍の事を致し己れを利するは野蠻ぢやと申せしかば、其人口を莟(つぼ)めて言無かりきとて笑はれける。
一二 西洋の刑法は專ら懲戒を主として苛酷を戒め、人を善良に導くに注意深し。故に囚獄中の罪人をも、如何にも緩るやかにして鑒誡(かんかい)となる可き書籍を與へ、事に因りては親族朋友の面會をも許すと聞けり。尤も聖人の刑を設けられしも、忠孝仁愛の心より鰥寡(かんくわ)孤獨を愍(あは)れみ、人の罪に陷るを恤(うれ)ひ給ひしは深けれ共、實地手の屆きた
る今の西洋の如く有しにや、書籍の上には見え渡らず、實に文明ぢやと感ずる也。 一三 租税を薄くして民を裕(ゆたか)にするは、即ち國力を養成する也。故に國家多端にして財用の足らざるを苦むとも、租税の定制を確守し、上を損じて下を虐(しひ)たげぬもの也。能く古今の事跡を見よ。道の明かならざる世にして、財用の不足を苦む時は、必ず曲知小慧(
せうけい)の俗吏を用ひ巧みに聚斂(しうれん)して一時の缺乏に給するを、理財に長ぜる良臣となし、手段を以て苛酷に民を虐たげるゆゑ、人民は苦惱に堪へ兼ね、聚斂を逃んと、自然譎詐(きつさ)狡猾(かうくわつ)に趣き、上下互に欺き、官民敵讐と成り、終に分崩(ぶんぽう)離析(りせき)に至るにあらずや。
一四 會計出納は制度の由て立つ所ろ、百般の事業皆な是れより生じ、經綸中の樞要なれば、愼まずばならぬ也。其大體を申さば、入るを量りて出づるを制するの外更に他の術數無し。一歳の入るを以て百般の制限を定め、會計を總理する者身を以て制を守り、定制を超過せしむ可からず。否らずして時勢に制せられ、制限を慢にし、出るを見て入るを計りなば、民の膏血(かうけつ)を絞るの外有る間敷也。然らば假令事業は一旦進歩する如く見ゆる共、國力疲弊して濟救す可からず。
一五 常備の兵數も、亦會計の制限に由る、決して無限の虚勢を張る可からず。兵氣を鼓舞して精兵を仕立なば、兵數は寡くとも、折衝禦侮共に事缺ぐ間敷也。
一六 節義廉恥を失て、國を維持するの道決して有らず、西洋各國同然なり。上に立つ者下に臨で利を爭ひ義を忘るゝ時は、下皆な之に倣ひ、人心忽ち財利に趨り、卑吝の情日々長じ、節義廉恥の志操を失ひ、父子兄弟の間も錢財を爭ひ、相ひ讐視するに至る也。此の如く成り行かば、何を以て國家を維持す可きぞ。徳川氏は將士の猛き心を殺ぎて世を治めしか共、今は昔時戰國の猛士より猶一層猛き心を振ひ起さずば、萬國對峙は成る間敷也。普佛の戰、佛國三十萬の兵三ヶ月糧食有て降伏せしは、餘り算盤に精しき故なりとて笑はれき。
一七 正道を踏み國を以て斃るゝの精神無くば、外國交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、圓滑を主として、曲げて彼の意に順從する時は、輕侮を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受るに至らん。
一八 談國事に及びし時、慨然として申されけるは、國の凌辱(りようじよく)せらるゝに當りては、縱令國を以て斃るゝ共、正道を踐み、義を盡すは政府の本務也。然るに平日金穀理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれ共、血の出る事に臨めば、頭を一處に集め、唯目前の苟安(こうあん)を謀るのみ、戰の一字を恐れ、政府の本務を墜しなば、商法支配所と申すものにて更に政府には非ざる也。
一九 古より君臣共に己れを足れりとする世に、治功の上りたるはあらず。自分を足れりとせざるより、下々の言も聽き入るゝもの也。己れを足れりとすれば、人己れの非を言へば忽ち怒るゆゑ、賢人君子は之を助けぬなり。
二〇 何程制度方法を論ずる共、其人に非ざれば行はれ難し。人有て後方法の行はるゝものなれば、人は第一の寶にして、己れ其人に成るの心懸け肝要なり。
二一 道は天地自然の道なるゆゑ、講學の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。己れに克つの極功(きよくごう)は「※[#「毋の真ん中の縦棒が下につきぬけたもの」、12-7]シレ意※[#「毋の真ん中の縦棒が下につきぬけたもの」、12-7]シレ必※[#「毋の真ん中の縦棒が下につきぬけたもの」、12-7]シレ固※[#「毋の真ん中の縦棒が下につきぬけたもの」、12-7]シレ我」(○論語)と云へり。總じて人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るゝぞ。能く古今の人物を見よ。事業を創起する人其事大抵十に七八迄は能く成し得れ共、殘り二つを終る迄成し得る人の希れなるは、始は能く己れを愼み事をも敬する故、功も立ち名も顯るゝなり。功立ち名顯るゝに隨ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒愼(かいしん)の意弛み、驕矜(けうきよう)の氣漸く長じ、其成し得たる事業を負(たの)み、苟も我が事を仕遂んとてまづき仕事に陷いり、終に敗るゝものにて、皆な自ら招く也。故に己れに克ちて、睹ず聞かざる所に戒愼するもの也。
二二 己れに克つに、事々物々時に臨みて克つ樣にては克ち得られぬなり。兼て氣象を以て克ち居れよと也。
二三 學に志す者、規模を宏大にせずば有る可からず。去りとて唯此こにのみ偏倚(へんい)すれば、或は身を修するに疎に成り行くゆゑ、終始己れに克ちて身を修する也。規模を宏大にして己れに克ち、男子は人を容れ、人に容れられては濟まぬものと思へよと、古語を書て授けらる。
恢宏其志氣者。人之患。莫大乎自私自吝。安於卑俗。而不以古人自期。
古人を期するの意を請問せしに、堯舜を以て手本とし、孔夫子を教師とせよとぞ。
二四 道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。
二五 人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを盡て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。
二六 己れを愛するは善からぬことの第一也。修業の出來ぬも、事の成らぬも、過を改むることの出來ぬも、功に伐(ほこ)り驕謾(けうまん)の生ずるも、皆な自ら愛するが爲なれば、決して己れを愛せぬもの也。
二七 過ちを改るに、自ら過つたとさへ思ひ付かば、夫れにて善し、其事をば棄て顧みず、直に一歩踏出す可し。過を悔しく思ひ、取繕はんと心配するは、譬へば茶碗を割り、其缺けを集め合せ見るも同にて、詮(せん)もなきこと也。
二八 道を行ふには尊卑貴賤の差別無し。摘(つま)んで言へば、堯舜は天下に王として萬機の政事を執り給へ共、其の職とする所は教師也。孔夫子は魯國を始め、何方へも用ひられず、屡々困厄に逢ひ、匹夫にて世を終へ給ひしか共、三千の徒皆な道を行ひし也。
二九 道を行ふ者は、固より困厄に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生抔に、少しも關係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出來る人出來ざる人有るより、自然心を動す人も有れ共、人は道を行ふものゆゑ、道を蹈むには上手下手も無く、出來ざる人も無し。故に只管(ひたす)ら道を行ひ道を樂み、若し艱難に逢うて之を凌ん
とならば、彌々(いよ/\)道を行ひ道を樂む可し。予壯年より艱難と云ふ艱難に罹りしゆゑ、今はどんな事に出會ふ共、動搖は致すまじ、夫れだけは仕合せなり。
三〇 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして國家の大業は成し得られぬなり。去れ共、个樣(かやう)の人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さるゝに付、孟子に、「天下の廣居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ、志を得れば民と之に由り、志を得ざれば獨り其道を行ふ、富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と云ひしは、今仰せられし如きの人物にやと問ひしかば、いかにも其の通り、道に立ちたる人ならでは彼の氣象は出ぬ也。
三一 道を行ふ者は、天下擧(こぞつ)て毀(そし)るも足らざるとせず、天下擧て譽るも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也。其の工夫は、韓文公が伯夷の頌を熟讀して會得せよ。
三二 道に志す者は、偉業を貴ばぬもの也。司馬温公(しばおんこう)は閨中(けいちゆう)にて語りし言も、人に對して言ふべからざる事無しと申されたり。獨を愼むの學推て知る可し。人の意表に出て一時の快適を好むは、未熟の事なり、戒む可し。
三三 平日道を蹈まざる人は、事に臨て狼狽し、處分の出來ぬもの也。譬へば近隣に出火有らんに、平生處分有る者は動搖せずして、取仕末も能く出來るなり。平日處分無き者は、唯狼狽して、中々取仕末どころには之無きぞ。夫れも同じにて、平生道を蹈み居る者に非れば、事に臨みて策は出來ぬもの也。予先年出陣の日、兵士に向ひ、我が備への整不整を、唯味方の目を以て見ず、敵の心に成りて一つ衝(つい)て見よ、夫れは第一の備ぞと申せしとぞ。
三四 作略(さりやく)は平日致さぬものぞ。作略を以てやりたる事は、其迹(あと)を見れば善からざること判然にして、必ず悔い有る也。唯戰に臨みて作略無くばあるべからず。併し平日作略を用れば、戰に臨みて作略は出來ぬものぞ。孔明は平日作略を致さぬゆゑ、あの通り奇計を行はれたるぞ。予嘗て東京を引きし時、弟へ向ひ、是迄少しも作略をやりたる事有らぬゆゑ、跡は聊か濁るまじ、夫れ丈けは見れと申せしとぞ。
三五 人を籠絡(ろうらく)して陰に事を謀る者は、好し其事を成し得る共、慧眼(けいがん)より之を見れば、醜状著るしきぞ。人に推すに公平至誠を以てせよ。公平ならざれば英雄の心は決して攬(と)られぬもの也。
三六 聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、迚(とて)も企て及ばぬと云ふ樣なる心ならば、戰に臨みて逃るより猶ほ卑怯なり。朱子も白刃を見て逃る者はどうもならぬと云はれたり。誠意を以て聖賢の書を讀み、其の處分せられたる心を身に體し心に驗する修行致さず、唯个樣(かよう)の言个樣(かよう)の事と云ふのみを知りたるとも、何の詮無きもの也。予今日人の論を聞くに、何程尤もに論する共、處分に心行き渡らず、唯口舌の上のみならば、少しも感ずる心之れ無し。眞に其の處分有る人を見れば、實に感じ入る也。聖賢の書を空く讀むのみならば、譬へば人の劒術を傍觀するも同じにて、少しも自分に得心出來ず。自分に得心出來ずば、萬一立ち合へと申されし時逃るより外有る間敷也。
三七 天下後世迄も信仰悦服せらるゝものは、只是一箇の眞誠(しんせい)也。古へより父の仇を討ちし人、其の麗(か)ず擧て數へ難き中に、獨り曾我の兄弟のみ、今に至りて兒童婦女子迄も知らざる者の有らざるは、衆に秀でゝ、誠の篤き故也。誠ならずして世に譽らるゝは、僥倖の譽也。誠篤ければ、縱令當時知る人無く共、後世必ず知己有るもの也。
三八 世人の唱ふる機會とは、多くは僥倖の仕當(しあ)てたるを言ふ。眞の機會は、理を盡して行ひ、勢を審かにして動くと云ふに在り。平日國天下を憂ふる誠心厚からずして、只時のはずみに乘じて成し得たる事業は、決して永續せぬものぞ。
三九 今の人、才識有れば事業は心次第に成さるゝものと思へ共、才に任せて爲す事は、危くして見て居られぬものぞ。體有りてこそ用は行はるゝなり。肥後の長岡先生の如き君子は、今は似たる人をも見ることならぬ樣になりたりとて嘆息なされ、古語を書て授けらる。
夫天下非誠不動。非才不治。誠之至者。其動也速。才之周者。其治也廣。才與誠合。然後事可成。
四〇 翁に從て犬を驅り兎を追ひ、山谷を跋渉(ばつせふ)して終日獵り暮らし、一田家に投宿し、浴終りて心神いと爽快に見えさせ給ひ、悠然として申されけるは、君子の心は常に斯の如くにこそ有らんと思ふなりと。
四一 身を修し己れを正して、君子の體を具ふる共、處分の出來ぬ人ならば、木偶人も同然なり。譬へば數十人の客不意に入り來んに、假令何程饗應したく思ふ共、兼て器具調度の備無ければ、唯心配するのみにて、取賄ふ可き樣有間敷ぞ。常に備あれば、幾人なり共、數に應じて賄はるゝ也。夫れ故平日の用意は肝腎(かんじん)ぞとて、古語を書て賜りき。
文非鉛槧也。必有處事之才。武非劒楯也。必有料敵之智。才智之所在焉而已。(○宋、陳龍川、酌古論序文)

追加
一 事に當り思慮の乏しきを憂ふること勿れ。凡思慮は平生默坐靜思の際に於てすべし。有事の時に至り、十に八九は履行(りかう)せらるゝものなり。事に當り率爾に思慮することは、譬へば臥床夢寐(むび)の中、奇策妙案を得るが如きも、明朝起床の時に至れば、無用の妄想に類すること多し。 二 漢學を成せる者は、彌漢籍に就て道を學べし。道は天地自然の物、東西の別なし、苟も當時萬國對峙の形勢を知らんと欲せば、春秋左氏傳を熟讀し、助くるに孫子を以てすべし。當時の形勢と略ぼ大差なかるべし。 問答 岸良眞二郎 問 一 事に臨み猶豫狐疑(こぎ)して果斷の出來ざるは、畢竟憂國之志情薄く、事の輕重時勢に暗く、且愛情に牽さるゝによるべし。眞に憂國之志相貫居候へば、決斷は依て出るものと奉レ存候。如何のものに御座候哉。 二 何事も至誠を心となし候へば、仁勇知は、其中に可レ有レ之と奉レ存候。平日別段に可レ養ものに御座候哉。 三 事の勢と機會を察するには、如何着目仕可レ然ものに御座候哉。 四 思設ざる事變に臨み一點動搖せざる膽力を養には、如何目的相定、何より入て可レ然ものに御座候哉。 南洲 答 一 猶豫狐疑は第一毒病にて、害をなす事甚多し、何ぞ憂國志情の厚薄に關からんや。義を以て事を斷ずれば、其宜にかなふべし、何ぞ狐疑を容るゝに暇あらんや。狐疑猶豫は義心の不足より發るものなり。 二 至誠の域は、先づ愼獨より手を下すべし。間居即愼獨の場所なり。小人は此處萬惡の淵藪(えんそう)なれば、放肆(はうし)柔惰の念慮起さざるを愼獨とは云ふなり。是善惡の分るゝ處なり、心を用ゆべし。古人云ふ、「主靜立人極」(○宋、周濂溪の語)是其至誠の地位なり、不レ愼べけんや、人極を立ざるべけんや。 三 知と能とは天然固有のものなれば、「無知之知。不慮而知。無能之能。不學而能」(○明、王陽明の語)と、是何物ぞや、其惟(たゞ)心之所爲にあらずや。心明なれば知又明なる處に發すべし。 四 勇は必ず養ふ處あるべし。孟子云はずや、浩然之氣を養ふと。此氣養はずんばあるべからず。 五 事の上には必ず理と勢との二つあるべし。歴史の上にては能見分つべけれ共、現事にかゝりては、甚見分けがたし。理勢は是非離れざるものなれば、能々心を用ふべし。譬へば賊ありて討つべき罪あるは、其理なればなり。規模(きぼ)術略吾胸中に定りて、是を發するとき、千仞に坐して圓石を轉ずるが如きは、其勢といふべし。事に關かるものは、理勢を知らずんばあるべからず。只勢のみを知て事を爲すものは必ず術に陷るべし。又理のみを以て爲すものは、事にゆきあたりて迫(つま)るべし。いづれ「當理而後進。審勢而後動」(○陳龍川、先主論の語)ものにあらずんば、理勢を知るものと云ふべからず。 六 事の上にて、機會といふべきもの二つあり。僥倖の機會あり、又設け起す機會あり。大丈夫僥倖を頼むべからず。大事に臨では是非機會は引起さずんばあるべからず。英雄のなしたる事を見るべし、設け起したる機會は、跡より見る時は僥倖のやうに見ゆ、氣を付くべき所なり。 七 變事俄に到來し、動搖せず、從容其變に應ずるものは、事の起らざる今日に定まらずんばあるべからず。變起らば、只それに應ずるのみなり。古人曰、「大丈夫胸中灑々(しや/\)落落(らく/\)。如光風霽月。任其自然。何有一毫之動心哉」(○明、王耐軒筆疇の語)と、是即ち標的なり。如レ此體のもの、何ぞ動搖すべきあらんや。 補遺 一 誠はふかく厚からざれば、自ら支障も出來るべし、如何ぞ慈悲を以て失を取ることあるべき、決して無き筈なり。いづれ誠の受用(じゆよう)においては、見ざる所において戒愼し、聞かざる所において恐懼する所より手を下すべし。次第に其功も積て、至誠の地位に至るべきなり。是を名づけて君子と云ふ。是非天地を證據にいたすべし。是を以て事物に向へば、隱すものなかるべきなり。司馬温公曰「我胸中人に向うて云はれざるものなし」と、この處に至つては、天地を證據といたすどころにてはこれなく、即ち天地と同體なるものなり。障礙(しやうがい)する慈悲は姑息にあらずや。嗚呼大丈夫姑息に陷るべけんや、何ぞ分別を待たんや。事の輕重難易を能く知らば、かたおちする氣づかひ更にあるべからず。 二 剛膽なる處を學ばんと欲せば、先づ英雄の爲す處の跡を觀察し、且つ事業を翫味し、必ず身を以て其事に處し、安心の地を得べし、然らざれば、只英雄の資のみあつて、爲す所を知らざれば、眞の英雄と云ふべからず。是故に英雄の其事に處する時、如何なる膽略かある、又我の事に處すところ、如何なる膽力ありと試較し、其及ばざるもの足らざる處を研究勵精すべし。思ひ設けざる事に當り、一點動搖せず、安然として其事を斷ずるところにおいて、平日やしなふ處の膽力を長ずべし、常に夢寐(むび)の間において我膽を探討すべきなり。夢は念ひの發動する處なれば、聖人も深く心を用るなり。周公の徳を慕ふ一念旦暮止まず、夢に發する程に厚からんことを希ふなるべし。夢寐の中、我の膽動搖せざれば、必驚懼(きようく)の夢を發すべからず。是を以て試み且明むべし。 三 若し英雄を誤らん事を懼れ、古人の語を取り是を證す。 譎詐無方。術略横出。智者之能也。去詭詐而示之以大義。置術略而臨之以正兵。此英雄之事。而智者之所不能爲矣。(○陳龍川、諸葛孔明論の語)  英雄の事業如レ此、豈奇妙不思議のものならんや。學んで而して至らざるべけんや。































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