吉田茂ヒロヒト憲法4条違反憲法99条違反国家反逆汚職罪極刑確定

 吉田茂と日米同盟の形成

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楠  綾 子

はじめに

サンフランシスコの中心部から車で20分ほどの距離に、プレシディオ国立公園がある。対日講和条約が調印された1951年9月8日、日米安全保障条約が締結されたのは、当時米第6軍の基地として使用されていたこの地であった。講和会議の舞台となった華やかなオペラハウスとは対照的な、下士官用クラブハウスの小さな一室での調印式で、日本政府を代表して署名したのは吉田茂首相ただひとりだった。日本国内の基地を米国に提供することによって安全保障を米国に委ねるという内容が、日本国内では不人気であろうことを彼は見越していた。だから、政治的責任は彼ひとりで負うことを覚悟したのである1【1 西村熊雄『サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約』(中公文庫、1999年)237頁。】。吉田は日米安保条約をどのように理解していただろうか。彼の考え方を示唆する記録を2つ取り上げてみよう。

ひとつは岸信介首相が安保改定を進めていた1958年11月、吉田が池田勇人通産相(当時)に宛てた書簡である2【2 池田勇人宛吉田茂書翰(1958年11月6日付)吉田茂記念事業財団編『吉田茂書翰』(中央公論社、1994年)71頁。】。……日本か東洋民族を率ひ其先頭ニ立つて反共以て民族の幸福を守り世界平和確立に努力するに非れハ共産主義の侵蝕を防き難しと御申聞被下度、(中略)共同防衛、国際相依の今日、自主とか双務とか陳腐なる議論ハ我等の賛成出来ぬところ……相互依存状況が進行し共同防衛が常態となった戦後世界において、岸のように「自主外交」を主張し安保条約の相互性の欠如を批判することに、いったいどれだけの意味があるのかと問いかけるのである。

もうひとつは、日米安保条約の将来をどう思われますか、と問うた高坂正堯・京都大学助教授(当時)に対して。しばし黙考した吉田は次のように答えた。「条約などは一片の紙切れにすぎない。当時、私はあれが最善と考えたから条約を結んだ。将来のことは将来の世代が決めるべきことです」3【3 吉田茂『日本を決定した百年 附・思出す侭』(中公文庫、1999年)295-296頁。】。

1963年秋ごろ、愛弟子の池田の政権が高度経済成長路線を疾走していたころであった。日米関係における「自主」や「対等」を追求し、その観点から(旧)日米安保条約を批判する議論に違和感を覚える一方で、吉田は、その条約を永遠不変のものと考えていたわけでもなかった。

2009年9月に民主党政権が誕生して以来の1年間ほど、日米安保が注目されたことは近年なかったであろう。普天間基地の移設問題は、安保条約が国民の権利の制限を伴っており、しかもこれによって生じる負担がけっして公平には分担されていないことをあらためて印象づけた。いわゆる「密約」問題を通じて公開された外務省の文書は、政府の国民に対する説明とは異なる了解が米国との間に存在していたという事実を明らかにした。こうした問題は、しばしば日米安保条約そのものに内在する構造的問題として理解され、吉田の結んだ条約にその起源が求められることも多い。だが、1951年当時、講和・独立という最重要課題を抱える日本に与えられた選択の余地はけっして広くはなかったし、そもそもその後の事態の変化にともなって生じた問題の責任まで吉田に負わせるのは酷であろう。吉田の選択は、当時の文脈のなかで検討されねばならない。吉田はなぜ、米国に基地を提供することを決断したのだろうか。再軍備問題や沖縄の処遇の問題との関連を視野に入れつつ、吉田の決定とその意味を考えてみたい。

Ⅰ 講和と安保

1949年秋に国務省が対日講和の推進を本格的に考えはじめたとき、最大の障害となったのは米軍部であった。この段階で、講和後の日本の安全保障について軍部内の方針がまとまっていたわけではない。ただ、沖縄に戦略的支配体制を布くことについては絶対要件であった。そして日本国内の基地についても、1950年を迎えるころには、自由使用の権利を確保することが米国の極東戦略上不可欠の要請であると考えられるようになった。つまり、軍部は、沖縄の戦略的支配と日本本土の基地の自由使用が保障されないかぎり、対日講和には同意できないという姿勢を示したのだった。しかし、とくに後者については、独立する日本に基地の提供を強要するわけにはいかない。そこで、日本政府の自発的同意をいかに得るか、そして講和後の米軍の日本駐留に国際的正統性を有する枠組を提供することが、米国政府にとっての大きな課題となった4【4 楠綾子『吉田茂と安全保障政策の形成――日米の構想とその相互作用、1943~1952年』(ミネルヴァ書房、2009年)第3章。】。

講和後の日本に米軍基地を置くことは、日本自身の選択でもあった。吉田茂の選択だったという方が正確かもしれない。終戦後まもない時期から外務省内で行われた講和条約研究をみると、冷戦が深刻化する1947年の秋ごろから、外務省が米国による安全保障を有力な選択肢として考えていたものの、基地の提供には二の足を踏んでいたことがわかる。それは憲法の理念に反するおそれがあると思われたし、なにより日本が共産主義勢力にはっきり敵対することを意味していたからであった5【5 同上、第4章。】。対立する二つの世界のなかで、日本が自由主義陣営とともに生きるという覚悟がなければ、米軍に基地を提供するという決定はできない。それだけに吉田の政治的決断を必要としたのである。遅くとも1950年春には、吉田は基地提供の意思を固めていたと思われる。それは、いくつかの判断を重ねた結果であった。まず講和の早期実現という、吉田にとっては最優先の政治課題の存在であった。終戦からすでに5年近くが経ち、占領の長期化が国民の自立心の喪失をもたらすことも懸念される状況が生じていた。一日でも早く講和・独立を実現することが必要であり、そのためには、米軍部が必要条件とする基地使用の継続は認めざるを得ないと吉田は考えたのである。

第二に、そうした消極的な理由だけではなく、米軍基地を日本に置くことが望ましいとの判断が吉田にはあった。冷戦下で国連が機能しない以上、日本の安全は米国に委ねるしかない。そして、米軍に基地を提供し、米国を日本にしっかり結びつける方が、より確実な保障となる。ソ連共産主義の脅威に近接する日本にとっては、米国の軍事力が有効な抑止力となりうると考えられた。

加えて、沖縄の処遇が吉田の念頭にあった可能性を挙げておきたい。条約局長として講和・独立時に吉田を支えた西村熊雄は、「吉田さんが平和条約を交渉されたときは、(中略)沖縄も小笠原も硫黄島も(中略)すべて日本の領土に残しておいてくれとの立場でゆかれたので『有事駐屯』方式じゃなく『常時駐留』方式になったのである」と回想している。外務省内の検討では、米軍の日本駐留を伴わない形で米国に安全保障を依存する方式──今日のことばでいえば「駐留なき安保」──の実現性や実効性が検討されていたし、1947年に当時の芦田均外相以下の外務省がアイケルバーガー(Robert L. Eichelberger)第八軍司令官に提案したように、有事駐留という考え方もあった。しかし、この時期の「駐留なき安保」論や有事駐留論は、沖縄や小笠原に米国が相当の軍事力を展開していること、さらにいえば米軍が沖縄や小笠原を支配しているという現状の継続が暗黙の前提とされている。沖縄に対する主権を回復するという立場に立つかぎり、有事駐留という選択肢は取り得ない。吉田は、米軍による沖縄や小笠原の支配が既成事実となって固定化しないよう、本土の基地を提供する必要があると考えたのではないかと思われる6【6 同上、第4章および176-179頁。西村の回想は、西村熊雄「サンフランシスコ平和条約について」『霞関会会報』第400号(1978年5月)。】。

安全保障に関する吉田の考え方をみるうえで興味深いのは、米軍への基地提供案と合わせて、日本や朝鮮半島の非武装化をひとつの選択肢として検討していたことである。吉田は、下村定や辰巳栄一など旧軍人から成るブレーン・グループに、日本と朝鮮半島の非武装化や北東アジアから太平洋にかけての地域の軍備制限などを内容とする案を作らせ、米国側に提示する準備までしている(いわゆる「C業」)7【7 楠『吉田茂と安全保障政策の形成』195-212頁。】。

1951年初頭に行われた日米交渉の場で実際に用いられることはなかったものの、このように米国に安全保障を依存するという方針とは必ずしも合致しない案を準備させた吉田の真意はどこにあったのだろうか。小泉信三や馬場恒吾、板倉卓造などブレーンの多くは、米国による安全保障を重視する立場から、この非武装化・軍備管理案には懐疑的、もしくは反対であった。それを押し切って準備を進めさせていることからみて、吉田がこの案を相当重視していたことがうかがえる。あるいは、東西対立の枠を超えて、地域全体を包含するような安全保障体制を構築する可能性を探っていたのかもしれない。それは日本の再軍備を不要とする環境が生まれることを意味するからである。

Ⅱ 日米安保条約の諸問題

吉田が結んだ旧安保条約は、1951年初頭から約半年にわたる日米交渉を通じて内容が確定したものである。条文上はきわめて問題の多い条約であることは否めなかったから、国内では保守、革新を問わずいたく不評であった。それがやがて安保改定の伏線となることはよく知られている通りである。ただ、批判された点の多くは、吉田や外務省の意思だけではどうにもならない性質の問題であったことをみておきたい8【8 以下、旧安保条約をめぐる日米交渉については、楠『吉田茂と安全保障政策の形成』228-247頁を参照。】。

もっとも批判されたのは、旧安保条約には米国の防衛義務が明記されていない、すなわち日米間の相互性が欠如していることであった。外務省はサンフランシスコ講和会議の直前まで、米国の確実な防衛保証を得るという観点から、また国連憲章との関係を明確にするために、条文上で集団的自衛の関係を設定するよう懸命に交渉した。しかし、それは米国には受け入れられない要求であった。ヴァンデンバーグ決議の拘束を受ける米国政府は、再軍備に消極的な姿勢をとる日本との間で、国連憲章に基づく地域的集団安全保障条約を結ぶことはできなかったのである。その結果、外務省は、日米それぞれが個別的自衛権に基づいて行動する結果、日米間に日本の防衛のための協力関係が生じるという苦しい説明に終始せざるを得なくなった。

もっとも、この点に吉田がそれほどこだわった形跡はみられない。もともと、条約や法律の条文の解釈や形式にそれほど頓着する性質ではなかったと思われるし、条文より実体を重視したこともあろう。米軍が日本に駐留し、抑止力として機能しているという実体があることが吉田にとっては重要であった9【9 吉田茂『回想十年』第3巻(新潮社、1957年)116-118頁。】。その点からいえば、旧安保条約は、条文上はともかく実体を作り出すことには成功しているのである。

在日米軍が極東における国際の平和と安全のために寄与するという、いわゆる極東条項は、日本国内では左派を中心に「巻き込まれ論」の立場から批判された。日本に駐留する米軍が極東地域の紛争に関わる結果、日本は自らの意思とは関係なく戦争に巻き込まれることになってしまう。それは憲法の理念に反するのではないか、との議論である。同盟を結ぶ当事者がつねに直面するジレンマであり、とくに1950年代は、朝鮮半島や台湾海峡での戦争の蓋然性がけっして低くはなかったから、説得力をもつ議論ではあった。

しかしながら、米国の立場に立てば、米軍の行動の自由を確保し、極東地域で発生する緊急事態に有効に対処するために、この条項は不可欠であった。米国は、日米安保条約に前後してオーストラリアとニュージーランドの間にANZUSを、フィリピンとの間に米比相互防衛条約を締結したことによって、その防衛義務と負担が飛躍的に増大していた。また、日米安保条約の付属文書「吉田=アチソン交換公文」は、日本が「国連軍」の作戦行動に対して支援することを約束した文書である。

「国連軍」という枠を超えて、あるいは「国連軍」が組織されないような事態に対しては適用されない。そうした状況で、在日米軍を極東の安全保障のために使用できないとなると、米軍の不利益は著しく増大してしまう。極東条項がなければ、米国は日米安保条約を締結することにあまり利益を見出さなかったであろう。

日米交渉の最終局面で滑り込んできたこの条項を、吉田も外務省もほとんど問題視しなかったようである。吉田にせよ外務省にせよ、そもそも日本に駐留する米軍が極東地域の国際の平和と安全のために使用されるとの理解で米国への基地提供を考えていたからであろう。日本の安全保障のために米国の軍事力の保障をどれだけ得られるか、やや大胆にいえばいかに「見捨てられ」ないか、が主たる関心であった当時の日本政府にとって、その米軍に「巻き込まれ」る危険性はほとんど念頭になかったといえるかもしれない。

外務省に交渉の余地があったとすれば、内乱条項の問題だったのではないだろうか。交渉過程をみるかぎり、日米間でこれらが問題になった形跡はほとんどないのである。吉田は共産主義勢力の間接侵略をもっとも恐れていたから、在日米軍の力を借りるのはあるいは当然だと思っていたのかもしれない。ただ、朝鮮戦争の勃発後まもなくマッカーサー(Douglas MacArthur)が警察予備隊の創設を指令したのは、在日米軍に替わって日本自身が日本を防衛するための実力組織を建設するためであった。そして、ダレス(John F. Dulles)や米軍部は講和会議の前後から再三再四、日本政府に再軍備を要求した。日本に少なくとも自衛の責任は果たしてもらいたいというのが、米国政府の本音であった。日本国内の治安維持については、日本政府が完全に責任をもつと主張すれば、米国は歓迎した可能性が大きいのではないだろうか。

Ⅲ 行政協定

日米安保条約は、米軍が講和後の日本に駐留するための基本的な枠組みを設定する条約である。基地の提供にともなう日常的なさまざまな問題は、行政協定によって処理されることとされ、講和会議後の1952年1月から2月にかけて、本格的な交渉が行われた。吉田や外務省がもっとも気を配ったのは、講和後の日本に駐留する米軍が日米安保条約という主権国家間で結ばれる条約に基づいて駐留する米軍であり、ポツダム宣言を根拠とする占領軍とは質的に異なることを、いかに目にみえる形で実現するかということであった。それは、ときとして米軍の軍事的要請と衝突することになるし、本国から遠く離れて勤務する兵士に可能なかぎり行動の自由を保証し、不利益から守りたいという米軍の要請とも相容れない。施設・区域の利用や刑事裁判権について交渉が難航したのはそのためである。それでも、全般的にみれば、米国は日本政府の主張にかなりの程度理解を示したといってよい10【10 たとえば施設・区域の利用については、吉田首相は「原則として占領軍の使用している施設は、平和条約発効と同時に所有者に返還さるべく、爾後における使用は日米双方の合意によって提供されたものでなければならないことを協定で明白にする」ことを要請した。交渉の結果、施設の継続的使用を求めていた米国側がやや譲歩し、協定の条文では「個々の施設及び区域に関する協定は、この協定の効力発生の日までになお両政府が合意に達していないときは、(中略)合同委員会を通じて両政府が締結しなければならない」とされた。一方、刑事裁判権については、日本側が求めたのは米比協定と同等もしくはそれ以上、NATO方式を適用することであった。交渉の結果、合衆国裁判の処分を日本側へ通告すること、日本側が裁判権の放棄を要求した場合に好意的に考慮すること、また、NATO方式が発効すれば刑事裁判権に関する条項は地位協定方式に切り替えること(1953年9月29日の議定書で実現する)、などが合意されている。行政協定交渉については、明田川融『日米行政協定の政治史――日米地位協定研究序説』(法政大学出版局、1999年)。楠『吉田茂と安全保障政策の形成』254-265頁。】。行政協定の交渉過程で注目したいのは、有事の際の日米協力に関する合意形成である。同盟が同盟たるゆえんは、有事の際の共同行動に求められるであろう。日米交渉の開始時点では、米国は、有事の際には日米が統合司令部を設置し、米国政府の指名する最高司令官の下で共同行動を取るという内容を、集団防衛措置条項として協定中に規定することを想定していた。ところが、この米国案には日本政府が猛烈に抵抗した。吉田は交渉担当者の岡 勝男官房長官や西村条約局長を叱咤激励し、「統合司令部」や「米国政府の指名する最高司令官」といった具体的記述を削除するよう米国側に求めさせた。施設・区域の利用や刑事裁判権問題に劣らず、この問題も交渉は難航したのである。結局、米国側は日本政府の主張にほぼ全面的に譲歩した。共同防衛措置を規定した行政協定の第24条は、「日本区域に敵対行為の発生したとき、またはその急迫した危険があるときは、米国および日本政府は、当該区域の防衛と安保条約第1条の目的を遂行するために必要な共同措置をとることについて、ただちに協議しなければならない」というごく原則的な内容にとどめられたのだった。

米国政府にとっては、日本に限らずNATOについてもANZUSについても、条約当事者間の協力関係をあらかじめ規定しておくことは、安全保障条約を機能させるうえで不可欠の要素であった。そして多くの場合、軍事力の大半を提供するのは米国であったから、その米国が指揮権をもつのは当然だと考えられた。日本政府が拒否したのは、この安全保障協力の根幹に関わる部分ではない。有事の際に日米が共同行動をとることや、日本の軍事力が実際には米軍の指揮下に置かれることは、吉田も容認していた。ただ、それを条文上で明示すれば、国民の間に激しい反発が沸き上がるのではないかと危惧したのだった。米国が当初提示した条文は、再軍備を示唆しているとみられる内容であったし、なにより「統合司令部」や「米国人の最高司令官」といった表現は、日本の主権に対する侵害という印象を与えかねなかった。6年以上に及ぶ占領を体験し、ようやく独立を回復しようとしている日本国民は、占領のにおいの残るものにはとりわけ敏感であった。日本政府からみれば、そうした国民に米国案は刺激的すぎたのである。

日本政府にとって幸いであったのは、日本の事情をラスク(Dean Rusk)やリッジウェイ(Matthew B. Ridgeway)総司令官が的確に理解したことであった。軍事的要請からいえば米国案のような明示的規定が望ましいとしつつも、親米勢力を代表する吉田を窮地に陥れてはいけないという判断から、日本政府の提案を受け容れたのだった。ただその後、米国政府は日本政府に非明示的な形での了解は求めている。行政協定の締結から半年後、吉田首相はマーフィー(Robert D. Murphy)大使とクラーク(Mark W. Clark)極東軍司令官との間で、有事の際に統合司令部を設置することを合意した11【11 Joint Chiefs of Staff, Decision on JCS 2180/71, a Memorandum by the Chief of Staff, U.S. Army on“Proposed Agreement between the U.S. and Japan to Establish Combined Defense Measures for Japan,” June 2, 1952, Geographic File, 1951-53, 092 Japan (12-12-50), Sec. 12, RG 218, National Archives and Records Administration, College Park, Maryland, USA.】。これは国民には公表されていないから、一種の「密約」といえよう。こうして、戦後の日米間の安全保障関係は、有事の際に両国がどのように協力するかという同盟の──この段階では「同盟」ということばは使われなかったし、日本側にはおそらくその感覚もなかったけれども──根幹部分について明示的な合意を欠いたまま、変則的な形で発進したのだった。

日本政府内で、この点が問題視されなかったわけではない。安保改定が現実の日程に上っていた1958年7月、外務省北米局安全保障課が作成した文書には、次のような記述がみられる。「現在我国に自衛隊と在日米軍が並存しているが、行政協定第24条(中略)があるのみで、安保条約は日本の防衛義務を規定せず、自衛隊と在日米軍の協力の基本関係に付何等の明示の約束は存しない。此の点に関し、自衛隊が在日米軍と並存する現状の裏付けとして、両者の協力の基本関係に付、安保条約は其の儘として、両政府間に何等かの合意を為し得るや、又為すべきや否やの問題が存する」12【12 米保「安全保障に関する当面の諸問題について(大臣説明案)」(1958年7月26日)外務省公開文書「いわゆる『密約』問題に関する調査その他関連文書(1.1960年1月の安保条約改定時の核持込みに関する『密約』問題関連)4分冊の1」。】。結局、新安保条約では、共同防衛に関する原則的取り決めが条約本体に吸収されることになる。有事の際の共同行動に関する具体的な取り決めが「日米安全保障協力のための指針(ガイドライン)」で実現するには、それからさらに20年近い年月を要したのだった。

おわりに

平時に外国の軍隊を日本に駐留させるのは、日本にとっては初めての経験であった。講和後の日本に基地をもつ米軍は、二国間の安全保障条約に基づいて駐留しているのであり、ポツダム宣言に根拠を有する占領軍とは質的に異なる。けれども、当時の日本人にとって、平時における軍隊の駐留は、義和団事件後の中国や満州国を想起させ、戦争の敗者、あるいは弱者が強制されるものという感覚があったのではないかと思われる。西村条約局長から行政協定の交渉経過や内容を聞いた若き日の中曽根康弘が、「要するに、この協定は日本をアメリカの植民地化するものですナ」とただ一言残して立ち去ったというエピソードは、保守政治家の受け止め方の一端を表しているといえよう13【13 外務省条約局法規課「平和条約の締結に関する調書Ⅷ」(1980年5月)外務省編『日本外交文書――平和条約の締結に関する調書』第5冊(外務省、2002年)所収、141頁(頁数は原文書)。】。こうした雰囲気が支配的ななかで基地の提供を決断するには、相当な勇気が必要であったと考えるべきであろう。

冒頭で紹介したように、吉田からみて、相互依存状況が深まり共同防衛が基調となった戦後世界において、自主性や双務性を過度に主張するのはナンセンスであった。互いに主権を抑制し、拘束しあうのが同盟であると達観していたかもしれない。

ただ、そういった合理的思考では片付けられないものがあることも、彼は理解していたのであろう。ポツダム宣言に基づく占領と日米安保条約に基づく米軍駐留が根本的に異なること、安保条約や行政協定が主権国家間の条約であることを、条約上で可能なかぎり明記しようとしたのはそのためである。吉田の主導した旧安保条約が、欠陥の多い条約であったことは間違いない。けれども、寛大な講和の実現、独立の回復が最優先課題として存在し、冷戦を戦う米国の軍事的要請が圧倒的な重みをもつなかで、吉田に日本の安全保障の骨格を作るという以上の成果を求めるのは難しかったと思われる。

吉田が日米安保条約を結んだのは、「それが最善だと考えたから」であった。冗長な説明を嫌う吉田のために解説するならば、早期講和を実現し、沖縄に対する主権を維持するとともに、軍事力をもたない日本が安全保障を確保するために、米軍への基地提供が必要だと考えたということになるだろう。敷衍すれば、1951年当時、日米間の「同盟」の形成を促したものは、日本側においては、ソ連共産主義という共通の脅威の存在と、国家目標を実現するための必要悪として受け入れるという感覚であったといえよう。また、日本国内で基地の提供に賛成した人の多くは、本来日本がもつべき自衛能力のあくまで代替手段として在日米軍を位置づけていた。つまり、日米安保条約に基づく米軍駐留は、再軍備が実現するまでの過渡的措置であり、行政協定は再軍備を促すものとして捉えられていたのである。その意味では、再軍備と米軍基地の削減はトレード・オフの関係にあった。今日の日米同盟は、そのような「同盟」がやがて存続のドライブを強め、それにともなって少しずつ実体を作り上げてきた結果である。「一片の紙切れ」ではなく、利益と価値を共有する関係が少しずつであれ日米間に育まれていく過程は、吉田の意図をはるかに超えた営みだったのではないだろうか。

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日本国との平和条約及び関係文書・御署名原本・昭和二十七年・条約第五号 digital.archives.go.jp/das/image-j/F0000000000000106881

裕仁の字が汚い。明治天皇大正天皇の字は美しいのにこいつは全く毛筆を使ったことがないようだ。この悪筆は伊藤博文より下手なほどだ。まあ実父が徳山藩の八男𧏚潰し毛利八郎だからしょうがないかw伊藤博文も暗殺専門非人忍者だったが裕仁も幣原喜重郎を総理にならせないためにヒ素で暗殺したからなw

敗戦の詔勅も臨済宗山本玄峰老師に書いてもらって棒読みだし226事変では明治天皇が最も大事にした皇軍兵士を問答無用で銃殺したし幣原喜重郎が決めた天皇象徴を自分で破って吉田茂を勝手に全権大使に任命して安保密約させ最高法規99条違反汚職するしほんとのクズだぜ昭和天皇吉田茂米内光政源田実ら。

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