改訂版 白村江の戦いと壬申の乱 講師 福永晋三
youtube.com/watch?v=6ABhP72Zv2Y
改訂版 白村江の戦いと壬申の乱 講師 福永晋三
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豊の国古代史研究会
2019/12/04
小講演会で疑問を残さないよう途中で質問等が入ります。壬申の乱も九州豊の国で生きた出来事。倭国本朝と倭国東朝 福岡県を東西に分けて2王朝が並立して起きていた。さてどんな展開になるか楽しみです。ご覧ください。
コメント
@TSAITO99 5 年前
百済宮・百済大寺の跡地が見つかるといいですね。
全体を通して 福永先生のすごい直観に感心し 説明に納得しております。
壬申の乱並びに天智天皇と天武天皇の関係もよく分かりました。
いろいろな資料のもと更に深い研究によって先生の説が確固たるものになることを切望します。
@小關康行-o1r
3 年前
真相解明 古代史日本の歴史が変わる 目から鱗が落ちるで御座います
@ペンちゃん-r4v
3 年前
福永説では倭国東朝は、田川近辺の元興寺(法興寺・飛鳥寺)等の寺の木材を畿内平城京に持って行き組み立て移築したと述べているが、年輪年代法測定値で飛鳥奈良時代:「測定値」が記録と 100 年違う・・・法隆寺・元興寺など、屋根瓦は平城京で元興寺新築の際、飛鳥寺と同じ行基葺様式(百済系)の瓦を新たに製造しただけのこと。710 年、藤原京から平城京への遷都に伴い相当数の寺社が移転した。しかし、平城京の元興寺は飛鳥寺からの単なる寺号(称号)受け継ぎで、飛鳥寺は遷都後も「本元興寺」として永く飛鳥の地に残ったのは多くの記録から明白。飛鳥寺を解体して、その木材を平城京へ運び元興寺を建設したとの「年輪年代測定値による移築説」は全くの誤である。因って、全ての木材は、700年以降の伐採材を使用しており、既存建築物での木材移築はあり得ない事である。
@めぐ-q2v6w
4 年前
YouTubeで歴史物の動画をよく見ているのですが、2020年で1番面白かったです!聞いていてワクワクしました!今すぐ福岡県に行きたい気持ちです(笑)先生の説をもっと多くの人に知ってもらいたいなー。
@otomioomiya2644
3 年前
動画を繰り返し視聴させて頂いています。ところで、白村江後、唐側に歯向かった薩野馬があの中国に馘首されるどころか赦され、しかも天智に次ぐ地位で迎えられた事の辻褄合わせに自分の納得が得られずにいます。私の拝視聴の範囲では触れられておらず、これには相当な理由付けの根拠が必要と思えます。あるいは天武は、盲点として意外な人物に比定できるのではないでしょうか。
@獅子丸-h4f
5 年前
体が震える。涙がでる。
@sunsetjan.2545
2 年前
調査のための発掘はしない(田川町)との事ですが、発掘を行う条件はどのような事でしょうか。恐れいりますが、ご説明頂けないでしょうか。
@ペンちゃん-r4v
3 年前
唐・新羅と組んでいる天智が白村江の戦いの前に水城等を造る必要はない。逆に考えると天智が大海人皇子に兵力を削ぐ為に造らせたとも考えられる。
白村江のとき、六〇〇艘は傍観、何もしてない、の根拠はあるのでしょうか?
@福永晋三鷹羽國研究所5 年前
2-2 『唐書』が記録する「白江の戦」
『旧唐書』の『劉仁軌(唐の武将)伝』では、六六三年に
『仁軌遇倭兵於白江之口 四戰捷 焚其舟四百艘 煙焰漲天 海水皆赤 賊众大潰 餘豐脱身而走』
(劉仁軌軍は白江口で倭兵と出会い四戦とも勝った。四百艘の舟は燃え上がり海水は真っ赤に染まった。賊は大敗し、扶餘豊(百済王子)は逃げ去った)とあります。
『旧唐書劉仁軌伝』を含め、中国および半島の歴史書には、六六三年の白江の戦は以下のように記録されています。
『旧唐書』(九四五年完)
①本紀高宗『顯慶五年八月庚辰 蘇定方等討平百濟 面縛其王扶餘義慈』(「百済義慈王は降伏した」のみで、白江の戦いの記述はない)
②列伝劉仁軌伝『仁軌遇倭兵於白江之口 四戰捷』(仁軌は倭兵に白江の河口で出会った。四戦勝った)
③列伝東夷百済国『仁軌遇扶餘豐之衆於白江之口 四戰皆捷』(仁軌は百済豊が率いる一軍に白江の河口で出会った。四戦皆勝った)
『新唐書』(一〇六〇年完)
④本紀高宗『龍朔三年九月戊午 孫仁師及百濟戰于白江 敗之』(「孫仁師と百済は、白江で戦いこれを退けた」のみで、倭国との戦いの記述はない)
⑤列伝劉仁軌伝『遇倭人白江口 四戰皆克』(白江の河口で倭人に出会った。四戦皆勝った)
⑥列伝百済『豐众屯白江口 四遇皆克』(白江の河口に豊がいた。四戦皆勝った)
『三国史記』(一一四五年完)
⑦新羅本紀文武王『扶餘豊脱身走』(「百済豊が逃げた」のみで、白江の戦いの記述はない)
⑧新羅本紀文武王大王報書『倭船千艘 停在白江 百濟精騎 岸上守船』(倭の船千艘が白江に停泊し、百済の精兵が岸からこれを守っていた)
⑨百済本紀義慈王『遇倭人白江口 四戰皆克』(白江の河口で倭人に出会った。四戦皆勝った)
このように『唐書』でも『三国史記』でも、倭兵(あるいは倭人)と戦ったこと、そして四回戦い全て唐軍が勝利したことが記録されていますから、倭国(当事我が国は倭国が国名、国名が日本となるのは八世紀初)の水軍が、唐の将である劉仁軌に敗れ、多くの血を流したと理解されているわけです。
ただし、唐の正史を伝える『新唐書(本紀)』においては、倭国との戦という表現はなく、「百済を白江で破った」と極めて軽く扱われていることにも留意下さい。
「すがけいのブログ」より
中国・朝鮮の古記録に基づいた推論です。白村江戦に関わる日本の著書の数々を読んだ結果の推論でもあります。その上、大宰府から出土した「御笠団印・遠賀団印」を見たときに直観した次第です。日本書紀はかなり黙して語らぬ史書でもあります。今の私の脳裏にしか存在しない「白村江戦」ですね。それは否定しません。
@ピタン人
5 年前
@福永晋三鷹羽國研究所 福永晋三 ご返答ありがとうございます!
新唐書の記述は恐ろしいですね。むしろ遠賀軍が本朝側をうしろから襲ったくらいの想像までできそうです。傍観していたという推論が良心的にさえ思えます。
福永先生の他の動画も拝見しましたが、どれも興味深く大変驚愕いたしました。
ところで、ひとつ万葉集の和歌で気になるものがありまして、藤原夫人の天武に返した和歌の、「おかみに降らせた雪」のおかみは、御上、(神)ではなく固有名詞であり、古事記に書かれた、刀から滴り落ちる血から生まれた闇淤加美神、書紀では高龗などと書かれているように、どちらも、蛇トーテムの一族により製造され神器とされた天叢雲剣を連想させ、天武が草薙の剣に祟られたという記述と関係があるのではないかと。
雪が降るというのは死の暗喩で、鎌足の娘であり不比等の妻になった藤原夫人がなにやら怪しく思えて仕方がないのです。
藤原は天武を暗殺してませんか?
藤原が奴国と繋がりがあれば、奴国を滅ぼしたヤマトを嫌い、近畿遷都によって九州ヤマト意図的に消し去った理由のひとつにもなるような気がします。
@福永晋三鷹羽國研究所5 年前
@ピタン人 藤原の天武暗殺?怖いテーマですね。でも、天智と鎌足が乙巳の変を起こしたのであれば、藤原と天武は敵同士のはずなんですよね。藤原不比等が日本書紀の編纂にかかわるなら、謎は深まるばかりです。
通説の解釈では何も解けませんね。私は年中、悩みっぱなしです。通説の先生方にもう少し真摯に日本書紀を研究していただきたい。
@豊岳正彦4 年前
@福永晋三鷹羽國研究所 先生
お久しぶりです。
藤原の天武暗殺というよりも持統が天智の娘であったことから父を天武に殺された持統の毒殺を考えます。
かつて神功皇后と武内宿祢が夫婦となって遠賀湾に草薙剣とともに身を投げた押熊皇子から皇位を奪い取ったのちにその因果で生まれた応神の肩に肉の盛り上がりを見て殺生の罪の恐ろしさに悔悟して仏教徒となったように、天武を毒殺した後持統も殺生を悔悟して敬虔な仏教徒となったとかんがえています。
人間関係では関裕二氏の考察が正しいと考えています。
場所はすべて福永先生のおっしゃる通り筑豊田川で起きたというのが歴史の唯一の真実でしょう。
藤原鎌足は百済王子豊章で、聖徳太子は蘇我入鹿であると関裕二氏は推理されたが、正鵠を射ていると思います。
@lahoene6900 5 年前
素朴な人心を惑わせる、「人心の乱」の首謀者ですね。
@あみ-e3b 5 年前(編集済み)
神功皇后は東から来て、筑紫や豊に朝廷を建てたってこと?
法隆寺とか四天王寺は都から遠く離れた地に建てたの?
平城京や東大寺も本当は田川にあって、奈良のは偽物とか言うん?
@佐々木健一-v3s 4 年前
ソロソロ、肥満を是正する、努力が必要です。
貴方一代で、終わらされる事を恐れます。
先生は本来は、反骨精神旺盛な、使命感が勝るお仁でしょう。
柔和な優しいお教えも良いですが、時には剛直で強い(学界に歯向かう)お姿を、報道媒体に晒して頂きたい。
体も強靭で、世論も牽引されるなら、一挙両得でしょ?あ!奥さんに贈る可きか…
屋外での、横向きのお姿、可成り痛々しく感じましたので、ストレスで食に癒し求められて居ませんか?
@ペンちゃん-r4v 3 年前
645年孝徳天皇倭国九州から河内難波長柄豊崎宮に遷都京都山崎に宮655年斉明天皇豊前飛鳥板蓋宮遷都・飛鳥岡本宮・筑紫朝倉橘広庭宮遷都660年蘇我連子筑紫君薩野摩大海人皇子(天武天皇) 唐の捕虜662年筑紫に帰還661年称制663年白村江の戦い敗北663年近江遷都668年即位中大兄(天智天皇)近江遷都
筑紫・畿内2王朝、671年近江崩御673年天武天皇即位大和飛鳥浄御原宮遷都白村江の戦いから壬申乱の王朝場所です。
@ペンちゃん-r4v 3 年前
三種の神器の中心は草薙剣(天叢雲剣)ではありません。天照大御神以来の八咫鏡です。因って草薙剣の祟りで天武天皇が死んだは、日本書紀編纂者の藤原不比等天智系の嘘であり、天武天皇を貶めているに過ぎない。草薙剣は須佐之男命が古志(越前国)の八岐大蛇からの奪った戦利品である。姉の天照大御神に差し上げた品である。
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