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明治維新の英雄、西郷隆盛。
なぜ彼は、かつて共に国を作った仲間たちと戦わなければならなかったのか? 上野の銅像で見せる穏やかな笑顔からは想像もできない、 西南戦争の壮絶な舞台裏と、西郷隆盛の切なすぎる最期の真実に迫ります。
教科書には載らない「最新兵器の秘密」や「大久保利通との友情」など、 大人の教養として知っておきたい日本史のミステリーを分かりやすく解説します。
VOICEVOX「青山龍星」
効果音:ポケットサウンド - @pocketse
日本で最も愛された男、西郷隆盛、上野の銅像で見せるあの穏やかな笑顔。しかしその最期はあまりにも壮絶で不可解なものでした。明治10年9月、鹿児島、城山、雨のように降り注ぐ弾丸の中で見つかった彼の遺体。しかしその遺体にはある決定的なものがかけていました。西郷は本当はまだ生きているんじゃないか。目の前に遺体があるにも関わらず。なぜ政府は西郷生存説に怯え続けたのか、そこには遺体に隠されたある衝撃的な秘密があったのです。英雄かそれとも逆賊か。あの銅像からは想像もできない。西郷隆盛、最期の真実を解き明かします。[音楽]ではなぜ西郷隆盛は政府と戦うことになったのか。話は明治維新まで遡ります。戦っているのは西郷隆盛率いる元武士たちの薩軍と徴兵で集められた農民や商人出身の政府軍です。かつて共に維新を成し遂げた薩摩の同郷人同士が今銃を向け合っているその背景には明治政府による武士への容赦ない改革がありました。明治4年の廃藩置県で藩が廃止され武士たちは職を失いました。明治6年には徴兵が導入され、農民も商人も軍隊に入れるようになった。戦うことは武士だけの特権だったのに武士としての存在意義そのものが根底から揺らぎ始めたんです。そして明治9年ついに致命的な法律が出されます。廃刀令です。刀は武士の魂です。それを持つことさえ禁じられた。さらに秩禄処分で給料も廃止されました。つまり武士は職を失い、魂である刀を取り上げられ、収入まで断たれてしまった。もう武士として生きていけない。そう絶望した彼らが頼ったのがかつて明治維新を成し遂げた英雄。西郷隆盛だったんです。ここで皆さんに質問です。なぜ西郷どんは自分が作った政府と戦ったんでしょう。政治的な意見が合わなかったから。まあ、教科書的には正解です。でもそれだけじゃないんです。実は西郷さんには政府に残ったもう1人の主役がいます。大久保利通。彼は西郷の幼馴染みでした。子供の頃から一緒に育ち明治維新を成し遂げた親友です。でも明治6年2人は征韓論を巡って激突します。西郷は自ら朝鮮に使節としていき、平和的に交渉しようと考えていました。ところが欧米視察から帰国した大久保は今はまだ外国と争うべきではないと西郷の計画に反対したんです。西郷からすれば約束が違うでした。西郷は深く傷つき政府を去ります。この時彼の心には裏切られたという深い傷が刻まれたんです。そして故郷の鹿児島へ戻った西郷は士族たちのために私学校を設立します。この私学校では若い士族たちに武術や軍事訓練が施されていました。そして世の中の変化についていけず、生活に困った士族たちが続々と西郷の元に集まってきます。西郷先生なら何とかしてくれる。なぜ彼らはそう信じたのか?彼はとにかく困窮する人を放っておけない人でした。ある時こんなエピソードがあります。維新政府の高官になった西郷さん。給料はとんでもなく高額でした。今の金額で言えば月収数百万レベルです。でも彼の家にはお金がなかった。なぜだと思いますか?困っている人が相談に来るとこれを持っていきなさいとお財布の中身を全部上げちゃうんです。自分の生活費も残さずにです。家の縁側にはいつも誰か見知らぬ居候が住みついていました。西郷さんは彼らを追い出すことなく一緒にご飯を食べていたそうです。先生、騙されてますよと。部下が注意しても、「騙されたならそれでよか」と云う地位や名誉お金に執着しない徹底した無私の人。それが西郷隆盛という男でした。だからこそ士族たちは西郷を信じて集まってきたんです。そして私学校の卒業生たちが鹿児島県の重要なポストに次々と就任していき、いつしか鹿児島県は私学校が実質的に支配する藩独立国家のようになっていたんです。政府から見ればこれは脅威でした。警戒は日に日に強まっていきました。実は西南戦争の前年明治9年全国各地で士族たちの叛乱が起きていました。熊本で神風連の、福岡で秋月の乱、山口で萩の乱が勃発し、廃刀令や秩禄処分に怒った士族たちによるもので、彼らは皆西郷先生もきっと起ち上がってくれるはずと考えていました。でも西郷は動かなかったんです。まだその時ではないと判断していたのかもしれません。これらの叛乱は全て政府軍によって鎮圧されました。そして翌年皮肉にも西郷自身が最後のそして最大の叛乱を起こすことになるのです。正直なところ西郷さん本人は最初から戦争をする気なんてなかったとも言われています。でも慕ってくれる家族のような部下たちが暴発しそうになった時彼は彼らを見捨てられなかった。「おハンらが死ぬならおいも死ぬ」優しすぎた男はその優しさゆえに望まぬ戦いの御輿に乗せられた。そして運命の引き金が引かれます。[音楽]明治9年から10年にかけて政府は極秘の作戦を実行しました。鹿児島にある陸軍の火薬庫から武器弾薬を大阪へ密かに搬出する計画です。なぜそんなことをしたのか。当時鹿児島には日本で唯一スナイドル銃の弾薬を製造できる工場がありました。スナイドル銃というのは元籠め式で連射が可能な最新式の銃です。政府軍の主力武器でした。もし西郷が叛乱を起こしたらその最新の弾薬が敵の手に渡ってしまう。だから政府は夜中にこっそりと武器を運び出そうとしたんです。ところがこの動きが鹿児島の士族たちに知られてしまった。彼らは激怒しました。この武器は俺たち薩摩が作ったものだ。それを泥棒のように持っていくのか。薩摩の士族たちは許せなかったんです。怒った私学校の生徒たちは各地の火薬庫を次々と襲撃。約8万4000発もの弾薬と多数の銃器を奪還しました。これに対して政府は軍隊を派遣。もはや全面戦争は避けられない状況になります。この時西郷は大隅半島鹿屋に出かけていました。事件の知らせを聞いた西郷はしまったと言って急いで鹿児島へ戻ります。帰る途中から西郷に私学校の生徒たちが各地から集まってきて鹿児島に着いた時には相当な人数になっていました。さらに追い討ちをかける事件が起きます。政府は情報収集のために警察官を鹿児島に派遣していました。警察官たちが鹿児島で捕まってしまったんです。私学校の生徒たちは彼らを拷問にかけ、西郷先生を暗殺する計画があったという自白を引き出しました。この暗殺計画の噂は私学校の生徒たちを激昂させるには十分でした。もはや誰も止められない状況になっていました。明治10年2月5日私学校で会議が開かれます。最終的に私学校の幹部桐野利秋が「男子の一事あるのみ」と言い放ち、武装蜂起の方針が固まりました。彼らは西郷の判断を仰ぎます。でも西郷さん本人には政府と戦うつもりなど全くありませんでした。ただ彼が戦わないといえば鹿児島の士族たちは統制を失い無秩序な暴動に発展する恐れがあった。最終的に西郷はこう言いました。「おはんらに差し上げ申そう。」彼は教え子であり家族のような部下たちを見捨てることができなかったのです。こうして西南戦争が始まりました。
明治10年2月、薩摩軍は約1万3000人の兵を率きいて北へ向けて進軍を開始しました。最初の目標は熊本城です。熊本には熊本鎮台という政府軍の重要拠点がありました。九州を制圧するにはここを落とすことが絶対に必要だったんです。政府軍は東京から続々と増援を送り込み最終的に約4万5000人。物量では圧倒的に政府側が有利でした。2月22日西郷軍は熊本城への総攻撃を開始します。しかし熊本城は戦国時代の名将加藤清正が築いた日本屈指の堅城だったんです。十分な食料と弾薬を備え、最新式の銃器で武装していました。西郷軍は何度も突撃を試みますが、城はビクともしません。5日攻めても10日攻めても落ちない。西郷軍の士族たちは徴兵で集められた兵士など百戦百勝と思っていました。でもそれは大きな誤算でした。政府軍は近代的な訓練を受けており、組織的な戦い方を徹底していたんです。火力と組織力では政府軍が圧倒していました。そうしているうちに政府軍の本体が南下してきます。そして田原坂での決戦。田原坂は熊本城の北にある要衝でした。明治10年3月4日から20日まで17日間に渡る戦が続きます。この戦いは凄まじいものでした。両軍合わせて約3000人が戦死、銃弾と銃弾が空中でぶつかり合い、1つの塊になって落ちてくるほどの撃ち合いでした。しかしここでも武器の性能差が出ます。政府軍の使うスナイドル銃は元籠め式で連射が可能でした。一方、西郷軍の多くは先籠め式のミニエー銃。1発打つたびに銃口から玉を込め直さなければならず発射速度は政府軍の数分の一でした。さらに政府軍は豊富な弾薬を持っていましたが、西郷軍は次第に弾薬が底を尽き始めます。結局3月20日、西郷軍は田原坂の突破を許してしまいます。これによって熊本城の政府軍は解放され、西郷軍の敗北は決定的となりました。なぜ西郷軍は負けたのか?第1に武器の性能差。第2に補給路の問題。最後割で北上したため食料も弾薬も補給が続かなくなった。第3に大義名分の弱さ。西郷先生が大久保への私怨で戦っている。そう見られてしまい全国の不平士族からの支援も広がらなかった。そして戦局は悪化の一途をたどります。圧倒的な政府軍の前に西郷軍は追い詰められていきました。ここから物語は凄惨な城山の最期へと向かいます。[音楽]
明治10年9月1日、西郷軍は故郷の鹿児島に戻ってきました。しかしそこはもう安息の地ではありません。彼らが立てこもったのは城山。ここを実に5万人もの政府軍が完全に包囲していたんです。対する西郷軍の残党はわずか370人ほど。誰がどう見ても勝ち目はありません。普通ならここで降伏の文字が浮かびます。でも西郷軍は誰1人として逃げませんでした。なぜ彼らは最後まで西郷と共にいたのか。それを示すある出来事がありました。実はここに至るまでの激戦の中で西郷軍は多くの政府軍兵士を捕虜にしました。食料も自分たちだけでカツカツな状況です。普通なら捕虜の扱いなんてひどいものです。ところが西郷さんは捕まえた10代、20代の若い兵士を見てこう言ったそうです。「お前たちにも親がおるだろう。こんな戦いで命を散らすな」と、乏しい軍資金の中から1人1人に旅費まで渡して家に帰してあげたと言うんです。敵であるはずの政府軍の兵士にまで生きる道を与えようとした。これが西郷隆盛という男の器でした。だからこそ城山に残った370人はこの人のためなら死ねると心から思っていたんでしょう。
さて包囲する政府軍のリーダーたちも心中は複雑でした。山県有朋をはじめ政府軍の幹部の多くはかつて西郷に育てられた元部下たちです。先生を殺したくない。なんとか助命できないか。総攻撃の前日9月23日山県有朋は西郷に向けて一通の手紙を送っています。「先輩、もう十分でしょう。どうか自決してこれ以上の犠牲を止めてください。」涙ながらに書かれたその手紙。しかし、西郷さんは手紙を届けに来た使者に「返事はいらん。」と告げ読むことさえしなかった。彼はもう自分の命を部下たちと共にこの山に埋めると腹を括っていたんです。そして9月23日の夜が来ます。洞窟の中で開かれた最後の宴。見すぼらしい着物に伸び放題の髭でもその場に悲壮感はありませんでした。西郷さんはいつもの人なつっこい笑顔で部下たちにこう語りかけます。「今夜は心措きなく語り明かそう。そして明日みんなで死のう。」死を前にしてこれほど穏やかになれるその精神力に部下たちは改めて惚れ直していました。しかし静かな夜は長くは続きません。夜明けと共に耳を劈くような砲撃音が城山を揺るがし始めます。ここから状況が一変します。いよいよ日本史上最も悲しい最後の突撃が始まるのです。午前4時総攻撃の合図と共に城山は火の海となりました。雨のように降り注ぐ銃弾の中、西郷隆盛はゆっくりと歩き出します。しかしその時はあまりに唐突に訪れました。パンという乾いた音と共に西郷さんの巨体が崩れ落ちます。敵の銃弾が彼の右太ももを貫いたのです。「先生、」駆けよる部下の別府慎助。しかし傷はあまりに深かった。股の大動脈を切断され、もう立つことさえできない状態でした。ここで西郷さんは痛みに顔を歪めることなく静かにそして優しくこう言ったのです。「慎助どん、もうここでよか。」これ以上部下たちを死なせたくない。自分の死に場所はここがいい。そんな思いが込められた短い言葉でした。彼は襟りをただし、はるか東の空、つまり天皇がいる東京に向かって深ぶかと頭を下げました。政府軍とは戦っても心は常に天皇のそばにあったのです。そして静かに言いました。「慎どん頼む。」震える手で刀を構える別府慎助。尊敬する師匠の首を自分の手で刎ねなければならない。「ごめん」怒鳴った音声。お許しください。涙ながらの叫びと共に刀が振り下ろされました。維新の英雄。西郷隆盛49歳の最期でした。
しかしここで信じられない事態が起きます。むしろここからが謎の始まりです。部下たちは泣き崩れる暇もなくある異状な行動に出ました。なんと斬り落とされた西郷さんの首を戦場から持ち去り、土の中に埋めて隠してしまったのです。なぜそんなことをしたのか?それは先生の首を敵のさらし物にしたくないという執念のような忠誠からでした。その結果進軍してきた政府軍が見つけたのは西郷隆盛の首のない遺体だけ。西郷がいない。まさか逃げたのか。現場は大パニックに陥ります。首が見つからなければ彼の証明ができない。政府軍の恐怖はピークに達しました。数時間後、ようやく土の中から泥だらけの首が発見されます。それを洗って確認した時政府軍の司令官、山県有朋は人目もはばからず泣き崩れました。「先輩、なんでこんなことに」首のない遺体と隠された首、それは敵味方を超えて愛された男のあまりに壮絶で切ない幕切れでした。
[音楽]
西郷隆盛の死後、人々は彼の死を受け入れられませんでした。あんなすごい人が亡くなるわけがない。きっとどこかで生きているはずだ。人々の悲しみはやがて西郷生存説という伝説を生みました。亡くなっても国家を揺がすほどの影響力。そして西南戦争はもう1つの大きな変化を日本にもたらしました。この戦いは武士の時代の完全な終焉を追認したのです。刀と精神力だけでは近代兵器と組織力には勝てない。それが証明されました。西郷隆盛という最後の侍の死と共に日本は新しい時代へと踏み出したのです。
愛される男西郷隆盛は自分の給料を困っている人に全部上げてしまう。敵の兵士に旅費を渡して逃がす。部下のために自分の命を捨てる。そんな生き方を貫いた人でした。敬天愛人。彼が掲げたこの言葉通り徹底して自分を捨てて他人のために生きた人生でした。戦争には負けました。逆賊として汚名を着せられました。それでも彼の真心は敵である政府軍の心さえも動かし150年後の私たちの心も震わせ続けています。
だからこそ西郷隆盛は日本史上最も愛された敗者として語り継がれているのかもしれません。上野の銅像の除幕式で奥様が「うちの人はこげん顔じゃなかっと」と腰を抜かしたという有名な話があります。でも顔が似ているかどうかなんてもう大した問題ではないのかもしれません。私たちが思い浮かべる西郷どんのあの暖かくて優しそうな笑顔。それこそが彼が日本人に残した心のあり方そのものだからです。この動画が面白い、心に響いたと感じていただけたら高評価、チャンネル登録、共有で応援していただけると嬉しいです。それではまた次の動画でお会いしましょう。
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