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#聞き流し用
全財産12ドル、40歳まで失敗続き。
それでも1個のキャラメルで人生を逆転させた男がいる。
森永製菓の創業者、森永太一郎。
6歳で父を亡くし、母に捨てられ、孤児同然で育った少年は、24歳でアメリカに渡り百万長者を夢見た。
だが現実は残酷だった。
陶器販売に失敗し、人種差別に苦しみ、全財産はわずか12ドルに。
35歳で死を考えた公園のベンチで、見知らぬ老婦人から一粒のキャンディーをもらう。
その甘さが、すべてを変えた。
「この味を日本の子どもたちに届けたい」
11年間の修行を経て帰国。
わずか2坪の工場から始めた洋菓子店は、やがて「製菓王」と呼ばれるまでに成長する。
しかし成功は彼を変えた。
傲慢になり、道を踏み外し、30年間の堕落。
そして妻の死をきっかけに、再び信仰の道へ。
「我は罪人の頭なり」と告白しながら全国を巡った晩年。
彼が最後に伝えたかったこととは。
人生に遅すぎることなど、何もない。
40歳からでも、50歳からでも、人生は変えられる。
森永太一郎が語る、波乱万丈の71年間。
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📖 おすすめの書籍はこちら(参考書籍)
👉 菓商 小説森永太一郎 - 若山三郎 https://amzn.asia/d/0runqBz?tag=sejin...
👉 太一郎物語 森永太一郎という男 - 北川晃二 https://amzn.asia/d/0XeAHeg?tag=sejin...
👉 森永太一郎青春伝 - つるぞえ浩 https://amzn.asia/d/helrwXM?tag=sejin...
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#森永太一郎 #森永製菓 #偉人伝 #成功哲学 #人生逆転 #諦めない心 #日本の実業家 #製菓王 #人生やり直し #聞き流し用
私は死にたかった異国の地で1人公園の ベンチに座り込んでいた。1900年
アメリカオークランドの公演だった35歳 になっていたポケットの中にはわずかな 小銭にしかない日本に帰るフチ員すらない 。何をしても失敗続きでもう何も残ってい なかった。24歳の時私は希望に満ち溢れ てこの国には立ってきた。アメリカで 100万長者になってやる。生き込んで 二きという日本の美しい当期を携えて海を 渡った。だが現実は甘くなかった。当期は 売れず、言葉は通じず肌の色が違うという だけで人間扱いされない日々が続いた。 持ってきた登期を全て売り払っても手元に 残ったのはわずか12ドル。今の日本円に 換算すればたった数千円。それが私の 前財産だった。6歳で父をなくし、母にも 捨てられ小児童然前で育った。どこに行っ ても厄介もの扱いされてきた。学校にも6 に行けず13歳から働き始めたアメリカに 来れば何か変わると思った。だが結局私は どこにいても惨目なままだった。もう生き ている意味が分からなかった。このまま 消えてしまいたい。そんなことを考え ながら私は公園のベンチで促だれていた。 その時1人の老父人が私のそばに来た。 彼女は何も言わず私の手のひに小さな キャンディを1粒そっと置いた。何が起き たのか分からなかった見知らぬ東洋人に なぜこんなこと?その優しさに驚きながら 私はそのキャンディを口に含んだ。甘かっ た。信じられないほど甘かった。こんなに 美味しいものがこの世にあるのか。そして 気づいたら涙が止まらなくなっていた。 その瞬間私の頭に1つの考えが浮かんだ。 この味を日本の子供たちに届けたい。なぜ そう思ったのか今でもわからない。だが、 それは天から降りてきた声のように私の心 を貫いた。今日はそんな私の話をしよう。 全在30にドル40歳まで失敗続き、それ でも1個のキャラメルで人生を逆転させた 男の話を。私の人生は悲しみから始まった 。1865年。慶王元年のことだ。私は 佐賀県イ氏で生まれた。父は当期を営む 商人で家は裕福だった。業はいざえ門何不 自由なく暮らせるはずだった。だが運命は 残酷だった。6歳の時父が病いでなくなっ た。まだ幼い私には何が起きているのか よくわからなかった。ただ大人たちがしく 動き回り家の雰囲気がどんどん暗くなって いくのを感じていた。父がいなくなると家 は急速に傾いていった。借金取が来て財産 は次々と人の手には立った。立派だった家 はあっという間に空っぽになった。そして 母は私を置いて去っていった。この子を 連れては嫁に行けないから母が誰かにそう 言っているの。私は聞いてしまった。その 日のことは今でも忘れられない。母の 後ろ姿がどんどん小さくなっていく。私は 泣きながら追いかけようとしたが、誰かに 止められたやがて母の姿は見えなくなり、 私は1人残された6歳の子供が感じる孤独 を。あなたは想像できるだろうか?世界で 1番大切な人に捨てられたのだ。自分は誰 からも必要とされていない。その思いが 幼い心に深く刻み込まれた。その後私は 親戚の家を点々とすることになった。どこ に行っても私は厄介ものだった。あの子は 貧乏神だ。うちにも余裕がないのに。 そんな言葉が聞こえてくるたびに私は 小さくなって息を潜めていた。食事を もらうのも気が引けた。居場所がないから いつもすみっこにいた誰かの顔色を伺い ながら生きる日々子供ながらに自分が いかに邪魔な存在であるかを痛感していた 。学校にも6に通かった。働き手として 使われることもあれば追い出されることも あった。12歳になっても自分の名前を 満足に書くことができなかった。お前は何 の役にも立たない。そう言われ続けた次第 に私もそれを信じるようになっていた。 13歳の時、私は野菜の業商人として働き 始めた。朝早くから野菜を仕入れ、思い 荷物を担いで街を歩き回る。足が棒のよう になるまで歩いてもわずかなお金しか稼げ なかった。だがそれでも自分の力で生きて いるという実感があった。誰にも必要とさ れなかった少年時代、あの頃の私には夢を 見る余裕すらなかった。ただ今日を 生き延びること、明日もな何とか食べて いくこと。それだけで精一杯だった。だが 、今思えばあの苦しみが私を強くしたのか もしれない。どん底から始まった人生だ からこそ上がる力がついたのだ。人生の 出発点は選べない。私は最悪のスタートを 切った。だが、それは終わりを決めるもの ではない。15歳の時、私の人生に天気が 訪れた今焼きの当期に方向に入ることに なったのだ。今り焼きというのは佐賀県で 作られる美しい当時機のことだ。天才な 絵付けと青や赤の鮮やかな色彩な特徴で 江戸時代からヨーロッパにも輸出されてい た名品だった。方向生活は厳しかった。朝 は日が登る前に起き、夜は日がくれてから も働いた。掃除選択荷物運び何でもやらさ れた。叱られることも日常差事だった。だ が私はここで初めて商売というものを学ん だ当期はただ作っただけでは売れない。 どうやってお客に見せるか、どうやって良 さを伝えるか、そしてどうやって信用を 気づくか、それを私は目で見て耳で聞いて 体で覚えていった。何より心を打たれたの は今り焼きの美しさだった。職人たちが1 つ1つ丁寧に作り上げるうつはそこには魂 がこもっていた。こんなに美しいものを 作れる人間がいるのか。私は感動した。 いつか自分も人の心を動かすような仕事が したい。漠然とではあったが、そんな思い が芽え始めていた。16歳の時、私は叔父 の山崎分門に引き取られた。この叔父は私 の人生に大きな影響を与えてくれた人物だ 。叔父は私を容姿として迎え入れ、山崎 太一郎という名前を与えてくれた。初めて 自分が誰かに必要とされていると感じた。 それがどれほど嬉しかったか言葉では 言い表せない。叔父は商売人だった。彼 から私は商売の心へを教わった。太郎商売 で1番大切なことは何か分かるか?はい。 たくさん売ることでございます。違う。 正直であることだ。叔父はそう言って私を 悟した嘘をついて一時的にお金を設けても 信用を失えば全てを失う。お客様に誠実で あること。それが商売の基本だ。その言葉 は私の心に深く刻み込まれた。正直な商売 。この教えは後に私が会社を起こした時 その根感となる理念になった。叔父の元で 働きながら私は少しずつ世界を広げていっ た。そしてある日アメリカという国の存在 を知った。当時のアメリカは夢の国と言わ れていた。誰でも努力すれば成功できる。 どんな貧しいものでも大金持ちになれる。 そんな話を聞いて私の心は激しく揺さぶら れた。いつか自分もアメリカに行って 大きな商売をしたい。まだ重大の少年だっ た私はそんな夢を抱くようになった。無謀 だと現れるかもしれない。だがどん底から 始まった人生だからこそどこまでも早い 上がってやりたいと思った。どんな環境に いても学べることはある。私は方向先で 人生で最も大切なことを学んだ正直である こと、誠実であることそして夢を持つこと 。188年、私は24歳になっていた。 そしてついにアメリカを決意したきっかけ はとの出会いだった。くというのは石川県 で作られる色鮮やかな当時機のことだ。金 や赤、緑、王食など華やかな色彩で絵付け されたくは見るものの心を奪う美しさが あった。私はこう考えた。この美しい焼き をアメリカに持っていけばきっと高く 売れる。アメリカ人はこんな素晴らしい 芸術品を見たことがないだろう。これで 100万長者になってやる。今思えば何と 甘い考えだったことか。だが、当時の私は 希望に満ち溢れていた。周囲は反対した。 アメリカに行くなど危険すぎる。言葉も 分からないのにどうやって商売するつもり だ?売れる保証がどこにある?皆がそう 言っただが私は聞く耳を持たなかった。 このまま日本にいても私の人生は変わら ない。捨てられた子供、厄介もの。そう いうレッテルを貼られたまま生きていくの は嫌だった。新しい土地で1から自分の力 を試してみたかった。1888年の秋、私 は船に乗った太平洋の荒波を超えて未知の 国へと向かう船だった。船の中で私は何度 も不安に襲われた。英語は一言も話せない 。頼れる知り合いもいない。本当にやって いけるのだろうか。だが同時に胸の奥では 希望の日が燃えていた。アメリカには無限 の可能性がある。自分の力を試すことが できる。人生を変えることができる。 やがて船はサンフランシスコの港に到着し た。港に降り立った瞬間の興奮は今でも 忘れられない。見たこともない建物。 生きう様々な人種の人々。聞いたことも ない言葉が飛びかう幻想。ここで人生を 変えてやる。私は拳を握りしめて装置かっ た。だが現実は私の想像をはかに超えて 厳しかった。港から一歩出た瞬間、私は 異国の地に放り出された1匹の迷い犬の ような気持ちになった。言葉が通じない、 看板が読めない。道を聞こうにも誰に聞け ばいいのかわからない。しかも私の肌の色 は周囲の人々と違っていた。道を歩いて いるだけでキーの目で見られた時にはあさ に避けられることもあった。それでも私は 夢を諦めなかった。まず枠谷を売る。そこ から始めるのだ。夢を持つことは 素晴らしい。だが私は現実を知らなすぎた 。この国で私を待っていたのは想像を 絶する苦難の日々だった。 サンフランシスコでの登期販売は完全な 失敗に終わった。私は秋を売ろうと街中を 歩き回った美しい絵柄の皿や壺を見せて 買ってもらおうとした。だが誰も買わ なかった。そもそも私が歩いていた地域は 労働者階級の人々が住む場所だった。彼ら は毎日の食事にも困っているのだ。高価な 日本の登期など買う余裕があるはずが なかった。しかも言葉が通じない商品の良 さを説明することすらできない。 身振り手ぶりで何とか伝えようとしても 軽減な顔をされるばかりだった。さらに 追い打ちをかけたのが人種差別だった 東洋人というだけでまともに相手にして もらえなかった。店に入ろうとすると出て いけなられることもあった。人間として 扱われない屈辱。それが私をうちのめした 。どうしようもなくなった私は持ってきた 登期をオークションで売り払うことにした 。2速3問だった。あれほど美しいと思っ た秋がゴミのような値段で買い叩かれて いく。悔しさで涙が出そうだった。そのお 金を日本の親族に送金したら手元には ほとんど何も残らなかった。数えてみると 全財産はわずか12ドル。今の日本円に 換算すればたった数千円程度だ。100万 長者になると意気込んでやってきたのに私 は乞食同然の身分に転落した。日本に帰り たかった。だが帰る船すらない。アメリカ に残っても希望はない。帰ることもでき ない。どうすることもできなかった。その 夜私は無良縮拍書に身を寄せた日本人立と いうキリスト教の教会が運営する施設だっ た困窮した日本人移民を助けるために彼ら は無料で宿を提供してくれていた。狭い 部屋に何人もの日本人が身を寄せ合ってい た。皆と同じように夢破れた者たちだった 。誰もが疲れ果てた顔をしていた。ベッド に横になりながら私は天井を見つめていた 。なぜこんなことになったのだろう。自分 は何のために生まれてきたのだろう。 そんな問が頭の中をぐるぐると回った。 答えは出なかった。翌日から私は生きる ためにどんな仕事でもするようになった。 アメリカ人の家庭で掃除や皿洗いをして膝 にを稼いだ、庭の手入れをしたり荷物を 運んだりもした。どんな仕事も断らなかっ た。生きていくためには仕方がなかった。 だがそんな仕事すら簡単には見つから なかった。東洋人はいらない。何度その 言葉を聞いたことか。人生にはどん底と いうものがある。私はまさにそこに落ちた 。希望の光などどこにも見えなかった。だ がどん底には1つだけ良いことがある。 これ以上お用がないということだ。あとは ハがるしかない。そのことに気づくまで私 にはまだ時間が必要だった。無料宿泊所で の生活は惨目なものだった。毎朝気が登る 前に起きて仕事を探しに出かける アメリカ人の家庭を1件一件回って仕事を くれないかと頼み込む。運が良ければ掃除 やサラ洗いの仕事がもらえた。運が悪けれ ば門前払いだった。投票人に仕事はない。 お前たちは汚い。出ていけ。そんな言葉を 何度浴びせられたことか。当時のアメリカ ではアジア人に対する差別が激しかった。 特に中国人への廃斥運動が盛んでその保先 は日本人にも向けられていた。私たちは まともな市民として認められていなかった 。同じ人間なのになぜこんな扱いを受け なければならないのか。私は何度もその 理不尽怒りを覚えた。ある日私は仕事を 求めてあるパン屋を尋ねた。店の前に従業 員募集の張り紙があったからだ。勇気を 出して店に入り、仕事をさせて欲しいと 頼んだ天手は私を上から下までじろじろと 見てこう言った。お前のような東洋人を 雇うわけがないだろう。出ていけ。 悔しかった。自分には能力がないわけでは ない。真面目に働く気持ちだってある。 ただ肌の色が違うというだけで門前払いさ れる。その日の夜、私は無良縮白書に戻り 、壁を殴った拳から血が出た。だが痛みを 感じている余裕すらなかった。自分は何の ために生きているのか。その問が毎晩私を 苦しめた。自望時期になりそうだった。酒 に逃げようとしたこともある。安い酒を 買って1人で飲んだ。だが酔いが覚めれば 現実は何も変わっていない。むしろもっと 惨目な気持ちになるだけだった。このまま 終わるのか。アメリカに来たのはこんな 生活をするためだったのか何度も自分に 問いかけた答えは出なかった。だが私の中 には1つだけ消えないものがあった。それ は意地だった。負けてたまるか。その言葉 がかかに心の奥で燃えていた。6歳で父を なくし、母に捨てられ厄介ものとして育っ た。どこに行っても馬鹿にされてきた。 それでも生きてきた。今更異国の差別 ごときで倒れてたまるか。その維持だけが 私を支えていた無料宿泊書を運営していた のはキリスト教の牧士たちだった。彼らは 私たち困窮した日本人を訳け隔立てなく 助けてくれた。なぜ見知らぬ東洋人のため にこれほどまでに尽くしてくれるのか私に は不思議でならなかった。あなた方はなぜ 私たちにこれほど親切にしてくださるの ですか?ある日私は牧士に訪ねた。牧士は 微縁でこう答えた。神様は全ての人を愛し ておられる。肌の色も生まれた国も関係 ない。私たちはその愛を伝えたいだけです 。その言葉は私の心に深く染み込んだ。 差別とは人の心を殺すものだ。私は何度も 心が折れそうになった。だが折れなかった 。それは意地であり。そしてこの教会で 出会った人々の温かさのおかげだった。 この苦しみの日々がなければ後の私は なかっただろう。人は追い詰められた時、 本当の強さを試される。私は差別という炎 の中で少しずつ鍛えられていったのだ。 1900年は35歳になっていた。 アメリカには立ってからすでに12年が 過ぎていた。その間私は何度も挫折し、何 度も立ち上がった当期販売に失敗した後、 ありとあらゆる仕事をした。掃除さ洗い庭 力事何でもやった。だがどれも長続きし なかった。いくつかの商売にも手を出した 。だがその度に失敗した言葉の壁人種差別 。そして何より経験不足全てが私の敵だっ た。35歳全財産はわずかな小銭にだけ 日本に帰る船員すらない。何をしてもダめ だった。もう疲れ果ていた。ある日の 夕暮れ私はオークランドの公園にいた。 1人でベンチに座りぼんやりと空を見上げ ていた。もう終わりだ。そう思っていた。 生きている意味が分からなかった。この まま消えてしまいたい。そんな考えが頭を よぎっていた。その時1人の老父人が私の そばを通りかかった。彼女は私を見て足を 止めた。私は顔をあげることもできなかっ た。きっとまた汚らしいものを見るような 目で見られるのだろう。そう思っていた。 だが彼女は違った。老婦夫人は何も言わず 私のそばに座った。してポケットから 小さなキャンディを取り出し、私の手のひ にそっと置いた。私は驚いて顔をあげた。 老夫婦人は穏やかに微笑んでいた。その目 には哀れみではなく温かさがあった。なぜ だろう見知らぬ東洋人になぜこんなこと私 には理解できなかった。老夫人は何も言わ ず静かに立ち去った。私は手のひの キャンディを見つめた。しばらくためらっ た後口に含んだ甘かった。こんなに甘い ものを私は食べたことがなかった。その 瞬間何かが私の中で弾けた。涙が溢れてき た。止めようとしても止まらなかった。 なぜ泣いているのか自分でも分からなかっ た。キャンディの甘さが凍りついた心を 溶かしたのかもしれない。見知らぬ人の 優しさが乾ききった心にシみは立ったのか もしれない。そしてその涙の中で私の頭に ふと1つの考えが浮かんだ。この味を日本 の子供たちに届けたい。なぜそう思ったの か今でも分からないだが、それは天から 降りてきた刑事のように私の心を貫いた。 日本にはまだこんなに美味しいお菓子が ない。子供たちはこの甘さを知らない。私 がそれを届けることができたら私の人生に 意味が生まれるのではないか。後日私は あの老夫人の家を探し当てた。彼女の名前 はヘンリー夫人。経験なクリスチャンだっ た。彼女とその夫は困っている人を助ける ことを生きがいにしていた。私は彼らの家 に招かれ話をする機会を得た。自分の教遇 を語り、お菓子を作る仕事がしたいと伝え た。ヘンリー夫妻は私を家族のように 受け入れてくれた。何の見返りも求めず ただ温かく接してくれた。彼らの信仰に 触れ私は心を動かされた。私は決意した 洋菓子職人になる。そして日本の子供たち にこの甘さを届ける。人生を変えるで愛は 思いもよらない形でやってくる。私の場合 、それは1粒のキャンディだった小さな ものが人生を大きく変えることがある 洋菓子職人になると決意した私だったが 現実は甘くなかった。まず賢工場の仕事を 探した。だがどこに行っても雇ってもらえ なかった。東洋人は雇わない。またその 言葉だった。何度断られても私は諦め なかった。原利負妻の温かさに触れ信仰を 持つようになっていた私は以前とは違って いた心に真ができていた。1890年私は 26歳で洗礼を受け正式にキリスト教と なった。信仰は私に生きる力を与えてくれ た神様が私を見守っている。そう思える ことでどんな困難にも立ち迎えるように なった。だが信仰を持ったがゆえに私は 新たな失敗もした。1度日本に帰国して 伝動活動をしようとしたのだ。キリスト教 の素晴らしさを日本の人々に伝えたい。 そう思い立って帰国したが結果は散々たる ものだった。誰も話を聞いてくれなかった 。野そ教など邪教だと言われた。洋父母 からは感動された。お前は我が家の恥だと またしても失敗だった。私の人生は失敗の 連続だった。落胆しながらも私は再び アメリカには立った。今度こそ洋菓子の 技術を身につける。その1年で再び修行の 道を歩み始めた。ようやくチャンスが巡っ てきたのはオークランドのホーム ベーカリーという店だった。そこで働く ことが許されたのだ。だが条件は過酷だっ た。1日15時間労働。月給はわずか 16ドル。それでも私は喜んで働いた。 ようやく貸作りを学ぶ機会を得たのだから 毎日が勉強だった。パンの焼き方、ケーキ の作り方、キャンディの製造法全てを必死 で吸収した目で見て覚え手で触って覚え下 で味わって覚えたレシキを暗記し、技術を 体に叩き込んだ失敗しては怒られ、また 挑戦するその繰り返しだった職人たちは 最初私のことを馬鹿にしていた。投票人に 貸作りなどできるものかそんな目で見られ ていた。だが私は彼らよりも早く来て、彼 らよりも遅く帰った誰よりも熱心に働き、 誰よりも多くを学ぼうとした次第に彼らも 私を認めるようになった。この修行時代に 私は貸作りの基本を全て身につけた。タン 、ケーキ、ビスケット、キャンディ、 マシュマロ、あらゆる洋画の製法を学んだ 中でも特に心を惹かれたのがキャラメル だった。あの日、老婦人からもらった1粒 のキャンディ、あの甘さを私は再現し たかった。修行は11年間に及んだ24歳 でアメリカに渡り、35歳で天気を迎え、 そして技術を習得したのは35歳以降の ことだった。長い道乗りだった。だがその 11年間が後の成功の土台となった。技術 は一兆一績には身につかない。焦らず諦め ずただひたすら学び続ける。それが職人の 道だ。1899年。私は34歳になってい た。アメリカには立って11年。ようやく 技術を身につけた私は決断を下した。日本 に帰ろ。そして日本で洋菓子を作ろう。 1899年34歳の私は日本の土を踏んだ 11年ぶりの帰国だった。アメリカで学ん だ技術を日本で生かす日本の子供たちに あの甘さを届けるその思いを胸に私は新た な一方を踏み出した。だが現実は厳しかっ た。まずお金がなかったアメリカでの修行 時代。私はほとんど貯金ができなかった。 月96ドルで生活するのがやっとだったの だ。持っているお金はほんのわずかだった 。どうするか悩んだ末に私は決断した。 借金はしない。自分の手元にあるお金だけ で小さく始める東京赤坂池行け、そこに わずか2つの小さな工場を借りた2つと いえば畳4枚ほどの広さしかない。その 狭い場所に鍋や道具を並べた。それが私の 出発点だった。森永西洋市製造省。 そう名付けた体操な名前だが実態は ミスぼらしい工場だった。設備は最低限。 従業員は私1人。全てを自分の手でやら なければならなかった。最初に作ったのは マシュマロだった。当時マシュマロのこと をエンゼルフードと呼んでいた天使の 食べ物という意味だ。柔らかくて甘くて口 の中でとろける日本人には馴染みのない味 だった。商標には天使の絵を描いた後に エンゼルマークとして知られるようになる 。あの天使だ。なぜ天使にしたのか。それ は私を救ってくれた新への感謝だった。 あの日、オークランドの公園で1粒の キャンディをくれたろ夫婦人。彼女の愛は まさに天使のようだった。その思いを込め て天使の絵を描いた。さてお菓子は作った 。だが問題はどうやって売るかだった。私 は自らを引いて町を歩き回った。リアカー には聖書の言葉を掲げた。正直に商売をし ます。そういう意味を込めていた町の人々 は最初はけ減な顔で私を見た。安その お菓子屋さん。彼らは私をそう呼んだ。 やそとは キリスト教のことだ。当時キリスト教とは 珍しく偏見を持って見られることも多かっ た。友人たちからはバカにされた。 アメリカ帰りのくせにしみったれだな。 11年もアメリカにいてたった2つの工場 か育児がないやつだ。そう言われても私は 気にしなかった。いや正確に言えば気にし ないようにした。私には信念があった。 事業を始める場合、他人からお金を借りて 始めるということでは真の成功を勝ち取る ことは難しい。借金をして大きく始めれば 見栄えはいい。だが、借金には利子がつく 返済に追われれば本当に良いものを作る 余裕がなくなる。私は自分の手で自分のお 金で小さく始めることを選んだ売れない日 が続いた洋菓子という馴染みのないものを 日本人に受け入れてもらうのは容易では なかった。こんな甘いものを。食べられ ない。変な味がする。そう言われることも 多かった。だが私は品質だけは絶対に 落とさなかった。材料を押しまず手間を 押しまず丁寧に作ったこの味を知って もらえれば必ず分かってもらえる。その 信念だけを支えに作り続けた。少しずつ リピーターが増えていった。あのお菓子屋 のマシュマロは美味しい。口込みで評判が 広がり始めた。時間はかかったが確かな 手えを感じていた。夢を形にする時周囲は 必ず馬鹿にする。だが気にしてはいけない 。小さく始めて大きく育てる。それが私の 信念だった。創業から数年。私の店は少し ずつ評判を得ていった。マシュマロを食べ た客がまた来てくれるようになった。 口コみで噂が広がり、新しい客も増えた。 だが私には限界があった。お菓子を作る ことには自信があった。だが経営のことは さっぱりわからなかった。帳簿のつけ方、 仕入れの交渉、販売の戦略、全てが手探り だった。そんな時運命の出会いがあった。 1905年のことだ。松崎半ザブ郎という 男が私の店を尋ねてきた。彼は実業家で私 より10歳ほどとしたった。鋭い目つきと 落ち着いたものし1目でただ物ではないと は分かった。森永さん、あなたのお菓子を 食べました。素晴らしい味だ。彼はそう 言ってこう続けた。だがこのままではだめ だ。良いものを作っているのにそれが世に 広まっていない。もったいないしだった。 私は作ることしかできなかった。売ること が苦手だった。松崎は提案した。私と一緒 にやりませんか?あなたは製造に専念して ください。販売と経営は私が担当します。 正直最初は迷った自分1人でやってきた 事業を他人と分け合うことに抵抗があった 。だがこのままでは限界があることも 分かっていた。私は松崎を信じることにし た。これが私の人生における裁量の決断の 1つとなった。松崎学は割ってから事業は 大きく変わり始めた。彼は販売毛を整備し 、広告を打ち、取引先を開拓した。私には 思いもつかない方法でお菓子を売り広めて いった。私は製造に専念できるようになっ た。品質にこだわり、新しい商品の開発に 力を注いだ2人参脚での経営。それがこう をそうした。やがて私たちの評判は高い 場所にまで届いた。ある日、中日アメリカ 講師夫人から注文が入った公式な パーティーで出すお菓子を作って欲しいと いう依頼だった。私は全力で取り組んだ 最高の材料を使い、最高の技術で作り上げ たターティは大成功だった。日本にこれ ほど素晴らしい洋菓子を作る店があるとは 。そう評価された。この評判が広がり、 やがて皇室からも注文が入るようになった 。で私のお菓子が共される。2つの工場 から始めた私には夢のような話だった。だ が私は決して品質を落とさなかった。 どんなに注文が増えても手を抜くことはし なかった。商売は正直出なければ栄えませ ん。恐怖から教わったこの言葉を私は 片解きも忘れなかった。1914年私たち は新商品を開発したポケット用ミルク キャラメル後に森永ミルクキャラメルとし て知られることになる。あの商品だ。なぜ キャラメルに着目したのか。それは携帯性 と保存性を考えてのことだった。当時の 用画しは気持ちしないものが多かった。だ がキャラメルならポケットに入れて 持ち歩ける。いつでもどこでも甘さを 楽しめる発売と同時にキャラメルは大 ヒットした全国の子供たちが森永の キャラメルを買い求めた。私の夢がついに 形になった瞬間だった。あの日、 オークランドの公園で1粒のキャンディを もらったその甘さを日本の子供たちに届け たい。その願いがようやく叶ったのだ。私 は成王と呼ばれるようになった。会社は急 成長し、従業員も増えていった。工場を 拡大し、新商品を次々と開発した チョコレート、ビスケット、キャンディ、 日本の歌詞文化が変わっていくのを感じた あの2つの工場からここまで来た。考え 深かった。だが成功には影がつき物だった 。成功は私の心を少しずつばんでいった。 そのことに気づくのはもう少し後のこと だった。成功に近道はない。私は品質だけ を信じて愚直に作り続けた。その積み重ね がやがて大きな花を咲かせた。1923年 9月1日、その日のことは一生忘れられ ない小前。東京王巨大な揺れが襲った関東 大震災だ。マグニチュード7.9という 想像を絶する大事震だった。私は当時58 歳。会社は順調に成長し、工場も大きく なっていた。全てがうまくいっているよう に見えた。だが地震は全てを一瞬で変えた 。東京は壊滅的な被害を受けた。建物は 崩れ、火災が広がり、町は地獄溶かした。 死者行方不明者は10万人を超えた。想像 を絶する3時だった。私の工場も被害を 受けた。幸い全開はまかれたが、設備には 大きな損傷があった。生産は止まり、従業 員たちも混乱していた。だが、私が見たの は自分の工場の被害だけではなかった。町 には食べ物を求める人々が溢れていた。家 を失い、家族を失い、全てを失った人々、 子供たちが泣き叫び、老人がうずくまって いた。水もなく、食料もなく、助けを 求める声があちこちから聞こえた。私は 決断を下した。倉庫にあるお菓子を全て 配れ、幹部たちは驚いた。社長、それは 無理です。会社が傾きます。在庫が なくなれば営業再開できません。彼らの 言うことは最もだった。だが私は譲ら なかった。これは神様とお客様へのお返し だ。私はそう言った。今まで私たちは多く のお客様に支えられてきたお菓子を買って くださったおかげで会社は大きくなった。 今こそその恩返しをする時だ。私たちは モてるもの全てを差し出した。ミルクの 接体は30万人分。ビスケットや キャラメルなど6万袋。例は87隻発。 召喚蓮入は1万5000間。イリア公園と 芝公園ではトラック1杯のドーナッツを 配布した被災者たちがお菓子を受け取る時 、彼らの顔に笑顔が浮かんだ子供たちが キャラメルを葬る姿を見て私は胸が熱く なった。その時私は思い出したあの日 オークランドの公園で私は死にたいと思っ ていた。何もかも失い絶望の底にいた。 そこへ1人の老父人が現れ1粒の キャンディを手渡してくれた。あの キャンディが私を救った。あの甘さが私に 生きる希望を与えた。今目の前にいる人々 も同じように苦しんでいる。全てを失い 希望を見失っている。私にできることは かつて私が救われたように彼らに甘さを 届けることだった。あの老夫人がしてくれ たことを今度は私がする番だ。それが私が 柏屋になった意味ではないか。この支援 活動で会社は一時的に苦しくなった。だが 私は後悔しなかった。むしろすが々しい 気持ちだった。震災からの復興の中で会社 は再び成長していった。人々は森永のお 菓子を覚えていてくれた。あの時助けて もらった。そう言ってくれる人もいた。 成功とは誰かのために使ってこそ意味が ある。私はあの時そのことを思い出した。 だが、私の心には別の問題があった。成功 の影で私は大切なものを見失いつつあった 。成果王と呼ばれるようになった私は次第 に傲慢になっていった。成功は人を変える 。かつて貧しさの中で神に祈った私はいつ しか祈ることを忘れていた。感謝の心を 忘れ自分の力で成功したのだと思い込んで いた。両亭が酔いを始めた酒を飲み、贅沢 な食事をし、華やかな場所に出入りする ようになった。それが成功者にふさわしい 生活だと勘違いしていた。そして私は 取り返しのつかないちを犯した。不倫だ。 妻がいながら他の女性と関係を持って しまった。私はクリスチャンだ。聖書の 教えに背いたことは自分でも分かっていた 両親がいたんだ。だがその痛みを酒で 紛らわせたこの堕落した生活は実に30 年間も続いた。表向きは成功した実業家だ が心の中では自分の罪深さに苦しんでいた 聖書を開いても以前のように心に響か なかった教会に行くことも次第に少なく なった。自分がクリスチャンであることを 隠すようになった。毎晩眠りにつく前に 後悔の念をし寄せた。なぜこんなことに なったのだろう。自分は何をしているの だろう。だが翌朝になるとまた同じ生活を 繰り返していた。変われなかった。いや、 変わろうとしなかったのだ。1930年、 天気が訪れた2人目の妻が病で亡くなった のだ。妻の死のとこで私は彼女の手を握っ ていた。彼女は私を見つめ静かに微園だ。 何も言わなかったが、その目には許しが あった。妻の息が止まった瞬間、私の中で 何かが崩れ落ちた。葬儀の後、私は1人で 川のほりに行った。そして声を上げて泣い た。なぜ自分はこんな人間になってしまっ たのか。あれほど神に救われたのに、なぜ 神を裏切ったのか。成功に汚れ大切なもの を見失った。妻にも神にも申し訳なかった 。その日私は神に再権心を誓った。もう 1度信仰に生きる残された人生を神のため に使う。1935年私は70歳で社長を 退任した。会社は信頼できる人々に任せ。 私は新たな道を歩み始めた。引退。私は 全国の教会を回り伝動公園を行った。公演 の題名はいつも同じだった。我は罪人の頭 なり。私は自分の謝ちを包み隠さず語った 。成功して傲慢になったこと、神を忘れた こと、不倫という罪を犯したこと、30 年間堕落した生活を送ったこと 恥ずかしかった。だが隠す必要はないと 思った。私はではない罪深い1人の人間だ 。だからこそ同じように苦しんでいる人々 に伝えたかった。人は謝ちを犯かす、道を 踏み外すこともある。だが、人はいつでも 変われる、やり直せる。それが私が身を 持って学んだことだった。1937年。私 は71歳でこのようった。振り返ればハ乱 の人生だった。個児として育ちアメリカで 地獄を見て1粒のキャンディに救われた 成王と呼ばれるまでになったが成功に溺れ て道を踏み外した。そして最後に再び進仰 の道に戻ることができた。私は成人では ないだが、だからこそ伝えたい。人はいつ でも変われる。やり直せる。私の人生を 振り返ってみよう。6歳で父をなくし、母 に捨てられた。小児童然前で育ち、どこに 行っても厄介もの扱いされた。学校にも6 に行けず13歳から働き始めた。24歳で アメリカに渡り、100万長者を夢見た。 だが、現実は甘くなかった。当期は売れず 、全財産は12ドルになった。差別に 苦しみ、何度も心が折れそうになった。 35歳の時、オークランドの公演で死を 考えた。そこで1人の老父人から1粒の キャンディをもらった。その甘さが私の 人生を変えた。40歳を過ぎてようやく 日本に戻り、2つの工場から始めた。バカ にされながらも品質だけを信じて作り続け たやがて成王と呼ばれるまでになった。我 が成功に溺れ道を踏み外した30年間堕落 した生活を送った妻の死をきっかけに ようやく目が覚めた人生とはそういうもの だ。成功もあれば失敗もある。正しい道を 歩むこともあれば踏み外すこともある。 大切なのは諦めないことだ。どんなに失敗 しても、どんなに道を踏み外しても人は やり直せる遅すぎることなど何もない。 40歳からでも50歳からでも60歳から でも人生は変えられる。正直に愚直に自分 の道を歩み続けて欲しい。それが私から あなたへの最後の言葉だ。この動画を見て 何か感じることがあっただろうか?あなた 自身の経験や思ったことを是非コメント欄 で教えて欲しい。言葉にするのが難しけれ ば100とだけ打ってくれても構わない。 あなたの声が私たちの励みになる。もし まだチャンネル登録をしていなければ是非 登録して欲しい。通知ベルも設定しておく と新しい動画を見逃さずに住む メンバーシップでは特別な内容も配信して いる。コメント欄で他の視聴者と語り合う のもきっと楽しいはずだ。次回も人生を 変えた偉人の物語をお届けする。どうか
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